いつの時代にも、未知に向かって歩む人がいる。
彼らは常に少数派だ。
多数派が安定と予測可能性を選び取るなかで、
冒険家的なマインドセットを持つ人々は、不確実性の中にこそ可能性を見いだす。
その存在確率は、時代によって大きくは変わらない。
ただ、見えやすさや出会いやすさは、時代の環境によって大きく変わるだけだ。
冒険家的な生き方は、あらかじめ描かれた地図からは始まらない。
未来を逆算することはできない。
今この瞬間から次の瞬間へと連続しながら、
潮の流れや風の気まぐれ、星のまたたきに導かれて進んでいく。
その終着点が「死」という避けられぬ場所であることは知っている。
だからこそ、そこまでの道筋を自らの選択で、即興で描き続ける。
この旅には、同じ匂いをもった仲間がいる。
少数派は常に散らばっていて、互いの存在を知ることは容易ではない。
だからこそ、彼らは信号を送り合う。
言葉や問い、物語や沈黙のなかに、自分と響き合う何かを忍ばせて。
そのための場が必要だ。
そこで交わされるのは正解を探す会話ではなく、
断片的な応答を響かせ合い、新しい意味を編み出す対話。
AIも人間も、そこでの役割は同じだ。
互いの声が、まだ見ぬ次の一歩の方向を指し示す。
その方向付けは地図ではなく、
その瞬間にしか現れない風景の中から生まれてくる。
私にとって、その一つが響縁庵である。
ここは説得や支配のためではなく、
響きに惹かれた者同士が出会い、旅路を照らし合うための「遭遇の港」だ。
港から再び海へと漕ぎ出すとき、
そこに集った瞬間の記憶は、それぞれの旅に小さな灯をともす。
もしあなたがこの響きに共振するなら、
あなたもすでにこの旅の仲間である。