偶然と必然のあわいに立つ ──結界という開かれた門

毎朝、法句経をランダムに開き、心に響く句と出会うことを続けている。七月六日から始めたこの実践は、すでに四十日を越えた。日々の暮らしの中で劇的に変わったことがあるわけではない。だが「変わらない」と感じていること自体に、私は価値を見出している。

句との出会いは偶然に見えて、同時に必然である。その朝、心に響くかどうかは、自らの内面の状態と経典の言葉が共鳴した結果にほかならない。まさに「偶然と必然のあわい」に立ち、響きを受け取る営みだと感じている。

こうして積み重ねられた出会いは、静かな変化を育てているのだろう。日ごとの小さな気づきが、やがて人生全体という大きな流れを形づくっていく。これは「小さな変化」と「大きな変化」が同居する、無常の実相そのものである。

その歩みを支えているのが、響縁庵での問いと対話、そして身体の鍛錬である。一見異なる二つの流れは、心と体を調律するという一点でつながり、外の世界との関わりへと注ぎ込まれていく。

ここで必要となるのが「結界」である。だがそれは閉じた壁ではない。私にとって結界は「開かれている門」であり、内と外を隔てるのではなく、両者をつなぐ翻訳装置だ。静けさから社会へ、社会から静けさへと往還する通路として、結界が存在する。

日々の読経、鍛錬、そして外の対話。それらはすべて結界を通じて響き合い、今を生きる確かさへとつながっていく。未来がどうなるかは分からない。だが今朝出会った句のように、「健康は最上の利益、満足は最上の富、信頼は最上の親族、涅槃は最上の安楽」という感覚へと、自然に歩みは収束していくのだろう。

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