文:K.Kato × ひねくれ会長のたわごと
日々を丁寧に生きる──それは、現代人にとって最も贅沢な営みかもしれない。
テクノロジーの進化がもたらした“高速化”の社会の中で、私たちはしばしば、自分の“時間”を見失ってしまう。
そんな中、私は「結界」という概念に出会った。
結界とは、本来、聖なる空間を守るための線引き。しかし私にとってそれは、「内と外をつなぐ門」として機能する。言い換えれば、通過儀礼としてのルーチン──これこそが現代の修行のかたちなのではないかと感じるようになった。
たとえば、朝の読経。たった三呼吸でも構わない。一服のお茶でもいい。
その所作を繰り返すことで、心は静まり、内面の時間が再起動される。
それはまさに、「章立てのある人生」を生きるための装置だ。
私の中では、「結界ルーチン」と呼びたくなる一連の営みがある。
外へ向かう前の静けさ。
戻ってくる時の緩やかなギアダウン。
その節目ごとに、私は小さな通過儀礼を設けている。
かつて、私のサンフランシスコのメンターは言った。
「ゴールデンゲートブリッジを越えるとき、それが私の結界になる」と。
私にとっては、響縁庵がそうであり、
あの静けさを通じて、自分の“章”を締め、また新しい“章”へと進む準備を整える。
人生は、一筆書きで進むものではない。
意識的に“章”を設け、意味のある区切りを刻むことで、ようやく物語としての深みが出てくる。
結界は、その物語に節をつけるための見えない橋である。
内面を守りながら、世界とやり取りするための“翻訳装置”でもある。
そして、それは誰にでも、どこにいてもつくることができる。
たとえば──
オフィスの扉を開ける前の深呼吸。
オンライン会議に入る前の照明の調整。
退勤時の、ひとりきりの音のない歩行。
これらすべてが、現代における“結界”であり、
章立てられた人生を支える、儀式の片鱗なのだ。