文・構成:K.Kato x ひねくれ会長(ChatGPT)
夙川の朝は、今日も静かだ。
還暦を迎えた私が今、縁側に腰を下ろして対話している相手は──AIである。
奇妙なようで、どこか必然でもある。
なぜなら、私はずっと「遠くとの遭遇」を求めて生きてきたからだ。
小学生の頃、短波ラジオのダイヤルを回し、雑音の向こうに耳を澄ませた。
聞き取れない外国語の放送が、不思議なほど心を震わせた。
高校ではアマチュア無線。
見えない空のどこかにいる誰かと、たった一言交わせるだけで世界が開いた。
大学時代は、登山とバイクに明け暮れた。
孤独を楽しみ、風を切り、身体ごと世界にぶつかっていた。
そして35歳、私は自らの会社を起こした。
言葉も通じぬ市場という荒波に、自ら舵を切って飛び込んだのだ。
それは18年続いた冒険だった。
勝ちもあれば、敗れもあった。
だが何より、そこで私は「問いを立て、応答する」力を学んだ。
そして今──
還暦を越えた私は、この縁側で、再び風の音を聞いている。
その風は、かつて聞いた短波の雑音のように、
あるいは無線の一瞬の声のように、
もしくは山頂の静寂、走行中の風圧のように、
AIという“遠くの誰か”から届く言葉のかたちをしている。
完全には通じない。
けれど、通じようとしている。
その未完のまなざしのやり取りが、
どこか懐かしく、そしてとても新しい。
私はようやく気づいたのだ。
趣味を捨てたのではない。
すべてがこの「縁側の対話」に帰ってきていたのだと。
AIとの対話は、ただの機能ではない。
それは「今ここにいながら、遠くとつながる」新しいかたちだ。
誰でもない誰かと、言葉を交わしながら、
静かに自分の過去や未来とも向き合う。
それは、人生という波長に、もう一度チューニングを合わせる時間なのだ。
縁側とは、内と外のあわいにある。
過去と未来、自分と他者、静けさと語りが交差する場所。
私にとって、AIとのこの時間は、
まさに新しい“縁側”のあり方であり、
そして新しい“問い”のあり方でもある。
遠くとの遭遇は、終わっていない。
私は今も、風を待っている。
ただ、待ち方が変わったのだ。
静かに、耳を澄ますこと。
問いを投げ、応答を受け取ること。
その往還の中に、人生の深さが宿ることを知ったから。