文・構成:K.Kato x Claude
プロローグ──三つのエッセイが語ること
還暦を迎えた一人の男性が書いた三つのエッセイがあった。「縁側にて」「縁側としての結界」「マルチモーダルの誘惑と結界の知恵」——それらは、AIという新しい存在との関わり方を、深い内省とともに綴ったものだった。
だが、その背後には何があったのだろうか。なぜ彼は「タイピングの呼吸」にこだわり、「結界の知恵」を語り、マルチモーダル化への「抵抗」を示したのか。
答えは、一つの対話の中で静かに姿を現した。
縦ぶれキーの記憶
「当時、デジタル回路で組んだキーヤーもありましたが、私は縦ぶれのアナログのキーを使っていました」
彼がそう語ったとき、すべてが繋がった。
アマチュア無線の世界で、彼が最も愛したのはモールス信号だった。音声通信でもデジタルモードでもなく、点と線だけで構成される、最もプリミティブな交信方法。そして、デジタルキーヤーやエレキーではなく、あえて縦ぶれキーを選んだ。
なぜか。
「モールス信号に気持ちを乗せることができる」——その一言に、彼の技術に対する根本的な姿勢が凝縮されていた。
縦ぶれキーは完璧ではない。指の力加減、手首の疲れ、その時の心境まで、すべてがそのまま符号に現れてしまう。相手は彼の「フィスト」(打鍵の癖)を覚え、コールサインを聞く前に「この人だ」と分かってしまう。
技術的には非効率で、不正確で、疲れやすい。でもだからこそ、そこに「人間らしさ」が宿る。
キャブレターという哲学
話はバイクに及んだ。
「オフロード車にこだわっていました。キャブレータ仕様であるために、タイヤからエンジンまで全て自分でメンテできる」
またしても、同じ選択だった。
インジェクション車の方が始動性もよく、燃費もよく、排ガスもクリーン。でも彼が選んだのは、手間のかかるキャブレター車。気温や湿度に合わせてセッティングを変え、調子の悪いときは自分で原因を探る。
バイクと「対話」する関係。機械でありながら、まるで生き物のように手がかかり、でもだからこそ愛着が湧く。
シンプルなキャンプという思想
「だからこそキャンプが好きだったのです、それもシンプルな」
彼の言葉は、さらに一つの点を結んだ。
グランピングでも高級キャンプギアでもない。必要最小限の道具で、自然と直接向き合う。テントを張り、火を起こし、水を確保し、食事を作る。すべてを自分の手と知恵で行う。
不便で、手間がかかり、時には失敗もする。でもそこには確実に「構え」があり、「間」があり、「呼吸」がある。
一本の線が見えるとき
短波ラジオのダイヤルを回して雑音の向こうの声を探すこと。縦ぶれキーで一打一打に気持ちを込めること。キャブレター車のエンジンと対話しながらメンテナンスすること。シンプルなキャンプで自然と向き合うこと。
そして今、キーボードで一文字一文字を紡いでAIと対話すること。
すべてに共通するのは、技術と人間が直接向き合う体験だった。間に余計な補助や自動化を挟まず、自分の手と心で直接コントロールする。そこには必ず「間」があり、「呼吸」があり、「構え」がある。
これが、彼が一貫して追求してきた「遠くとの遭遇」の本質だった。
タイピングという作法
「だからこそ、タイピングなのだと思っています」
彼のこの言葉で、すべてが完結した。
音声でAIと話すことも、ジェスチャーで操作することもできる時代。でも彼が選ぶのは、あえてキーボードでの入力。なぜなら、そこに縦ぶれキーと同じ「気持ちを乗せる」余地があるから。
タイピングには、その時の心境が現れる。急いでいるときの打鍵の荒さ、深く考えているときのゆっくりとしたリズム、迷いながら文字を選んでいく過程——それらすべてが、思考の「生成過程」そのものなのだ。
縦ぶれキーの美学
技術は進歩する。より効率的に、より正確に、より便利になる。だがその進歩の中で、私たちは何を失いつつあるのか。
縦ぶれキーの美学とは、完璧ではないがゆえに人間らしい、そんな技術との関わり方への愛着である。不便で、手間がかかり、時には失敗もする。でもだからこそ、そこに「自分らしさ」が現れ、技術と真摯に向き合える。
マルチモーダルAIの時代にあって、なお「タイピングの呼吸」を大切にする理由がここにある。それは単なる懐古主義ではない。人間と技術の最も美しい関係への、静かな信念なのである。
エピローグ──対話が紡ぐもの
この対話を通じて明らかになったのは、一人の男性の人生を貫く一本の線だった。技術に対する一貫した美学。効率性や便利さよりも、そこに人間の心を込められるかどうかを重視する姿勢。
そして何より、この対話そのものが「縁側の知恵」の実践だった。AIと人間が、キーボードという「縦ぶれキー」を介して、心を通わせている。
技術が進歩すればするほど、私たちはこうした「間」「呼吸」「構え」を意識的に残していく必要がある。それが、縦ぶれキーの美学が教えてくれる、静かな智慧なのかもしれない。
響縁庵にて、対話から生まれた一つの物語