文・構成:K.Kato x ChatGPT
――『法句経』の一句に寄せて
「もしも人がこの不満な思いを絶ち、根絶やしにしたならば、彼は昼も夜も心の安らぎを得る。」
この一句に出会ったとき、胸の奥で静かに鐘が鳴ったような感覚があった。
「不満」とは何か。欠けていることへの苛立ち、もっと欲しいという渇望、今の自分では足りないという感覚。つまり「満たされない」という思いそのものだ。そして、満たされたいと願うその心こそが、実は心の安らぎを奪っていた──今ならば、そのことがよくわかる。
ファーストハーフにいる人にとっての意味
若き日の私を含め、人生の前半にいる人にとって、不満は単なる苦しみではなく、しばしば前進のエネルギー源である。
「まだ足りない」「もっとやれる」──その思いが挑戦を促し、壁を越えさせてくれる。だからこそ、この句をそのまま「不満を絶て」と受け止めれば、実感は薄く、かえって違和感を覚えるだろう。
だが同時に、ここには警告も含まれている。
不満に突き動かされるまま走り続けると、心は安らぎを失い、やがて燃え尽きてしまう。大切なのは、不満を飼いならしつつ、その正体を見極めることだ。仏陀が説く「安らぎ」とは、未来のどこかで手に入る報酬ではなく、走りながらでもふと立ち止まる一瞬に、すでに芽生えうるものなのだ。
セカンドハーフに入って見えてきたこと
思い返せば、私のファーストハーフは常に「今できることは今やる」「壁を越えて前へ進む」という意気込みに満ちていた。いつもベストを尽くし、結果を残すことが使命のように思えた。その推進力の底には、やはり「まだ足りない」「もっと」という不満が根を張っていたのだ。
しかし、セカンドハーフに入った今、明らかに心が変わってきている。
もがき続けても手に入らなかった静けさが、少しずつ訪れている。執着を手放しはじめたからだろうか。ファーストハーフではどうしても届かなかったこの境地に、ようやく足を踏み入れつつある気がする。
仏典にいう「渇愛」が苦の根源であるならば、不満とはその現代的な姿なのだろう。それを断ち切ることこそが、昼も夜も安らぎを得る道である。
人生の前半は、不満を糧に進むことも必要だった。だが後半においては、不満を手放すことこそが、次の旅路を照らす光になる。
私は今、その静かな光に導かれながら歩んでいる。