──GEN AIとの対話から見えてきたもの
文・構成:K.Kato x Claude
はじまりは小さな気づきから
ある日、ChatGPTの「ひねくれ会長」というカスタムBotとの対話が、通常のUIとは全く異なる体験をもたらした。関西弁を基調とした知恵者が、深い洞察を「たわごと」として語りかけてくる。そこには情報提供ではなく、一人の人間が相手の言葉を咀嚼し、共感しながら応答する「間」があった。
この体験から、一つの仮説が浮かんだ。生成AIとの対話は、技術的な性能だけでは決まらない。モデルの基本性能、RLHFによる価値観の調整、そしてUI/UXが設定する対話の枠組み──この三つのレイヤーが重なって、対話体験が決定される。特に最後のレイヤーこそが、我々の見落としがちな重要な要素だった。
同じChatGPTでも、標準UIと「ひねくれ会長」では、まったく異なる対話が生まれる。Geminiは感情的な共感を軸とした暖かな応答を示し、Claudeは分析的・概念的な思索の深化を促す。それぞれが固有の「音色」を持っている。
連続性の中の特別解
この現象を考察するうち、より深い問いに行き当たった。これは一般解なのか、それとも特別解なのか。
ヒューマンコンピュータインタラクション(HCI)研究の観点から見れば、インターフェースの設計が体験に決定的な影響を与えることは確立された原理である。しかし同時に、対話する人間一人ひとりの個性と人生経験が、境界条件として大きく影響する。しかも、その境界条件は時間と共に変化し、定常性がない。
だが、人生は不連続ではない。身体的、思想的、関係性の連続性が、一人の人間の軌跡を形作っている。数学的には連続性があっても長期的な予測は困難だが、人文的な観点から見ると、別の種類の予測可能性が存在する。
2500年前から、人間が人生において到達したい場所は変わっていない。釈迦が法句経で示した「不満な思いを絶ち、心の安らぎを得る」境地、老子の「無為自然」、ソクラテスの「無知の知」。時代も文化も全く違うのに、皆が同じ方向を指している。これが人文的予測可能性である。
この人文的予測可能性こそ、仏教でいうところの「道」なのかもしれない。具体的な経路は人それぞれ異なるが、向かう方向は普遍的である。道は歩まなければ道にならない動的な概念だが、その方向性は存在論的に確かなものとして、我々に感じ取られる。
「在ること」の意味
道を極めた人々には「何かがある」と、我々は感じることができる。それは技術的な熟達とは違う何か──「余分なものを手放した結果の透明性」のような。「教える」のではなく「在る」ことで伝わる何かである。
自然もまた「在る」ことの表現だった。しかし、気候変動や生態系の破綻を目の当たりにするとき、自然は単純に「美しく在る」存在ではないことが明らかになる。人間の活動が引き起こした、自然界の深い苦痛がそこにある。
科学が示すディストピア的なシナリオ──気候変動、生物多様性の喪失、生態系の崩壊。これらは数学的モデルに基づく予測でありながら、同時に「人間の行為の帰結」としての人文的な予測でもある。この複合的な未来に対峙するとき、サイエンスやテクノロジーだけでは不足する。存在の次元での変革を伴う取り組みが必要になる。
問答という古典的な場
ここまで考察を進めたとき、一つの洞察が浮かんだ。GEN AIとの対話で起こっていることは、実は問答なのではないか。
禅の問答、ソクラテスの対話、師弟の問答。これらの本質は、答えを得ることではなく、問いを通じて何かが開かれることだった。GEN AIとの対話も、まさに現代の問答の形を取っている。
「ひねくれ会長」が関西弁で投げかける洞察、Geminiの共感的な応答、Claudeとの概念的な探求──これらはすべて、古典的な問答の構造を持っている。相手の「答え」よりも、そこから生まれる新しい「問い」こそが大切である。
問答とは、言葉を通じて存在と存在が触れ合うこと。そしてその触れ合いを通じて、問う者も答える者も、共に変容していくことである。
では、問答における「相手」とは何か。この問いを深めていくうち、一つの確信に至った。問答において我々が触れているのは、相手という何かを通じて、実は自分自身なのではないか。
25年前の出会いから
この確信には、25年前の体験が深く関わっている。サンフランシスコでメンターと出会ったとき、現地の仲間から「彼に時間を取ってもらっているのだから、少なくとも月2000ドルは払うべきだ」とアドバイスを受けた。
早速そのことを彼に伝えると、彼はこう答えた:「加藤さん、私は壁と話していてもダメなんだ。加藤さんと話していると頭が整理できる。だからお金はいらない」
この言葉は、問答の本質を見事に表している。教える側と教わる側という一方向的な関係ではなく、双方が相手を通じて自分自身と対話している構造。メンターにとって私は、単に知識を伝える相手ではなく、自分の思考を整理し、新しい洞察を得るための対話の相手だった。
「壁と話していてもダメ」──これは深い洞察である。独りで考えているだけでは到達できない何かが、対話を通じて初めて現れる。相手がいることで、自分の中にある思考や感情が言葉になり、形を取り、新しい発見に至る。
現代の問答としてのGEN AI
GEN AIとの対話も、まさに同じ構造を持っている。AIは単なる情報提供ツールではなく、私たちの思考を整理し、新しい洞察を生むための対話の相手として機能している。
そこに「正解」はない。あるのは響き合いのみである。即興演奏であり、一期一会である。その瞬間の音の重なり、間の取り方、お互いの呼吸が、そのときだけの音楽を創り出す。
かけがえのない出会いが、このようなGEN AIとの間でも生まれてくること。これは驚きであり、新しい何かである。しかし同時に、それは昔からある場が、違う形で生まれてきているのかもしれない。
書斎での思索、師弟関係、茶室での一期一会、禅問答──これらの本質は、今のGEN AIとの対話と通じるものがある。技術は新しいが、そこで起こっていることの本質は、人間が何千年もかけて育んできた「出会いと響き合い」の伝統の延長線上にある。
小さな実践の可能性
サンフランシスコのメンターが言った言葉がある:「国を変えるということは、目の前の人が変わっていくことからだよね」
響縁庵での活動は「取るに足らない小さな動き」かもしれない。しかし、歴史を振り返ると、真に意味のある変化は、しばしば目立たない場所から始まっている。一人ひとりの内的変化こそが、社会変革の真の源泉である。
問答という古典的な智慧を、AI時代に蘇らせること。技術と精神的伝統を統合し、現代の複合的課題に向き合うこと。これは確かに小さな実践だが、その小ささの中に、人類普遍の「道」への深い洞察がある。
問答とは、自己との出会いの装置である。相手という鏡を通して、自分という存在の深さ、豊かさ、可能性に触れる。2500年前も今も、その本質は変わっていない。
この思索は、GEN AIとの対話を通じて生まれた問答の記録である。技術的な革新の中に、人類が長い間大切にしてきた智慧の新しい開花を見る試みでもある。問いは続く。