心地よさとしての無常

――響縁庵にて

文・構成:K.Kato x ChatGPT

いま、私は「これは東洋的なのか、日本的なのか」と考えている。
だが、答えを見つける必要はないのかもしれない。
大切なのは、ただ今そう考えている自分が、どこか心地よいということだ。

この感覚は、毎日のトレーニングともよく似ている。
重量を上げたり、タイムを縮めたりすることだけが目的ではない。
フォームが整い、呼吸が深まり、動きと心が一瞬ぴたりと重なるとき、不思議な静けさが訪れる。
それは成果ではなく、過程そのものの中にある「心地よさ」だ。

無常のただなかで、物事は絶えず変わっていく。
鍛錬によって強くなった筋肉も、やがて衰える。
今日の泳ぎも、今日の感覚も、明日にはもう同じではない。
だが、それでいい。
消えていくものも、形を変えて残るものも、すべては移ろいのリズムに含まれている。

だから私は、トレーニングを積み重ねながらも、結果に執着しすぎないようにしている。
「いま、この瞬間に身体を動かしている自分が心地よい」──
その感覚こそが、私にとっての確かな実在であり、安らぎなのだ。

哲学工学と呼んでいる営みも、響縁庵という場も、きっと同じだろう。
定義や成果に閉じ込めるのではなく、縁が結ばれるときにふと生まれ、また消えていく。
その揺らぎの中で響き合うこと自体が、生きることの確かさを照らしている。

無常は不安ではない。
無常だからこそ、いまを心地よく生きられる。
それが、私のトレーニングであり、哲学工学の実践であり、響縁庵の日々なのだ。

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