悔いと反省──縁を変える言葉

人は誰しも、起こったことに対して「こうすべきだった」と悔いることがある。だが、悔いとは執着から生まれる心の働きだ。変えられない過去に固執し、「思い通りにしたい」と願う心が苦を増やす。

一方で、仏教は「反省」を否定しない。むしろ、反省は未来を切り拓く契機だ。誤りを省みて改めることは、執着とは異なり、次の善い縁を結ぶための行為である。悔いは心を縛るが、反省は心をひらき、歩みを整える。

法句経は説く──「諸法は心を先とし、心を主とし、心によってつくり出される」。執着からの言葉は縁を濁らせ、反省からの言葉は縁を澄ませる。外に放つ意見もまた、そこにある心の質によって未来を大きく変える。

私はこれまでの歩みの中で、まさにそのことを体験してきた。感情に任せた言葉は憂いを生み、落ち着いて省みた言葉は関係を修復し、道を開いた。つまり、縁の姿は出来事そのものではなく、その出来事にどう言葉を与えるかによって変わるのだ。

法句経第207偈にある「愚人と共に歩む人は憂いがある。心ある人と共に住むのは楽しい」という言葉は、外なる人間関係だけでなく、内なる自分の心とも響き合う。愚かな執着と共に歩めば憂いが増すが、心ある態度と共に生きるならば、人生は静けさと喜びに満ちてくる。

悔いではなく反省を、執着ではなく柔軟さを。そこにこそ、縁を良き方向へと転じる力が宿っているのだと、今は思う。

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