出張先のホテルでMacが立ち上がらないというトラブルに見舞われた。再起動を繰り返しても改善せず、調べた先に残された選択はOSの再インストール。光回線でなければ時間がかかる。復旧を願いながら甲府から八王子へ戻る道中、頭をよぎったのは「もし完全に壊れていたら」という最悪のケースだった。
かつての自分なら、焦りと苛立ちに心を乱し、冷静さを失っていただろう。だが今回は違った。最悪を想定しつつも、どうすれば対応できるかを落ち着いて見渡す余裕があった。心を「強く」固めるのではなく、状況に応じて折れずにしなる「柔らかさ」が働いていた。そしてその柔らかさは、ただ漂うものではなく、遠くを俯瞰する「軸」とともにあった。
今朝出会った法句経の第207偈──「愚人と共に歩む人は憂いがある。心ある人と共に住むのは楽しい」──は、この経験と不思議に響き合った。ファーストハーフの私は、利害に導かれて「愚人」とも共に歩いた。そこには安堵はなく、むしろ心のざわめきが残った。セカンドハーフに入った今、「心ある人」との縁を大切にすると同時に、自らの内に「心ある態度」を育てることの大切さを実感している。
非定常の出来事は必ず起こる。そこで必要なのは強固な心ではなく、柔軟に応じ、遠くを見据える眼差しで状況を受けとめる心だ。その心があれば、トラブルさえもまた「心ある自分」と出会い直す機縁となる。愚人との憂いを離れ、心ある人と歩む喜びへ──仏典の言葉が、日々の予期せぬ現実の中でこうして生きて響いている。