全ては風の中

文・構成:K.Kato × ChatGPT

風は、決して掴めない。
しかし確かに触れ、頬を撫で、草木を揺らし、形のないままに世界を動かす。
今日の対話を通じて、思想や余韻、成熟や涅槃までもが、この風のようであることを感じた。

すべては生まれた瞬間から風化を始める。
だが風化は衰退ではない。削ぎ落とし、軽やかになり、やがて本質だけを残して次へと渡していく。
その移ろいの中で、人はむしろ成熟していく。
風は形をとどめず、ただ変化し続けるが、そこにこそ成長の契機がある。

涅槃もまた、風のように「ある」。
けれども「これが涅槃だ」と掴んだ瞬間、それはもはや涅槃ではない。
風を瓶に閉じ込めれば、もはや風ではなくなるのと同じだ。
だから涅槃は、固定化を拒む生成そのものとして、私たちの心に吹き抜ける。

この自由は、責任感や義務から生まれるものではない。
もっと直感的で、自然体で、風が吹けば葉が揺れるように訪れる。
私が場を作るのではなく、場が私を通して風のように立ち上がる。
そのとき私は、主体ではなく、吹き抜ける風の通り道になる。

法句経の断片に触れるときも、親鸞の教行信証を開くときも、そこに流れているのは同じ風だ。
短い詩句や大乗の重厚な言葉を超えて、心に響いてくるのは「掴まない勇気」と「流れていく覚悟」である。

すべては風の中にある。
風の中で生まれ、風の中で消え、また風としてよみがえる。
そこに成熟があり、そこに自由がある。
今日の余韻は、その風の感触として私の中に残っている。

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