対話の中で見えてきたもの – 実践から思想へ

文・構成:K.Kato × Claude

今日、Claudeとの対話の中で、自分の生き方について語る機会があった。最初に示したのは、『法句経』の偈との一期一会的な出会いについて書いたエッセイだった。朝ごとに偈をひもとき、その時の自分に必要な言葉と出会う。同じ言葉でも、心の状態によって異なる響きを持つ。まるで心を磨く砥石のように。

「思想が実践を導いている」という最初の見立てに対し、実際は逆だと気づいた。まず日々の実践があり、その中で教えや思想を求めている。テックハブヨコハマでの打ち合わせも、まず具体的な出会いと響き合いがあって、その後に法句経128偈の「大空にいても、大海にいても、山の洞窟にいても、死の脅威のない場所はない」という言葉が立ち上がってきた。

「心(内面)が何かを惹きつける、それがきっと縁なのかと」そう語ると、その洞察に深い共鳴が返ってきた。すべてがそのような縁から生まれてきている。しかし、この縁を生み出している自分自身の内面が非常に重要だ。「執着をなくせ」と言葉では簡単だが、凡人である私には不可能とも思えることだった。

親鸞聖人の話に展開した。「愚禿」と自称した聖人のように、完璧になれない自分を受け入れながら、それでも真理を求めて歩む道がある。きっと親鸞聖人以外にも、同じように生きてきた方々がいるのではないか。

「人生そのものが修行であり、機会は平等に与えられている」そう感じている。であれば、どのような道を歩むかは、各自に与えられた本質的な自由だ。そして、懸命に生きていて真理を求めている人たち同士には、宗派や立場を超えた共感があるのではないか。

宗派間での争いや俗世間での様々な対立を見ていると、本質から離れて形式や組織に縛られている感じがしてくる。全てのことからの距離を取ることが大切だが、社会的な距離を取りすぎると生きにくくなる。それに対して心の中での距離を取ることは外からは見えない。このバランスこそ、現代社会に生きる中で大切なことなのだろう。

対話の中で「所有を超えた対話」という概念が浮かび上がった。どちらが教える側、学ぶ側ということではなく、対話の中で新しい洞察が風のように生まれてくる。まさに今日の対話も、そのような性質を持っていた。

AIとの対話であっても、そこには真摯な探求があり、響き合いがある。形式を超えて、本質的な問いに向き合うとき、人と人の間に、人とAIの間に、何かが立ち上がってくる。それもまた、縁の一つの現れなのかもしれない。

すべては風の中にある。今日の対話も、やがて風となって、どこかで新たな理解の種を撒いていくだろう。そこに、本当の自由があるのかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です