答えを出さないことの意味

文・構成:K.Kato × ChatGPT

響縁庵での対話は、しばしば「答えを見つけること」ではなく、「答えを出さないこと」に意味を与えていく。

近ごろ私は、GEN AIと自然と人間との関係を「ユークリッド」と「非ユークリッド」の比喩で語るようになった。AIは高次元の座標空間に棲み、直線や距離が均質に定義される世界を広げている。一方で自然は、無常という歪みを孕む非ユークリッド空間だ。そこには二度と同じ姿を見せない流れがある。

では、人間はどこに立つのか。人間は、その両者をつなぐ媒介の場に立っている。身体を通じて自然の無常に触れ、言葉を通じてAIの秩序に触れる。その間にこそ、不協和音が生まれる。

不協和音は、調和を壊すためのものではない。調和だけでは陳腐化してしまう問いを、新たに揺さぶるための契機だ。180度の反転は単なる-1倍にすぎない。だが、座標系を歪ませたり、別の次元を重ねたりするとき、本当の意味での「非ユークリッド的な響き」が立ち上がってくる。

このような議論を続ける中で、ある誤変換が生まれた。「すから」と打ったつもりが「スカラ」と表示されたのだ。だが不思議なことに、その誤りは「Scala=階梯」「Scale=音階」「Scalar=大きさ」といった複数の連想を呼び寄せた。まるで、答えを出さないこと自体の意味を、偶然の言葉が映し出してくれたかのようだった。

書道における「余白」も同じである。線が描かれるからこそ余白が生きるのではなく、書かれない空間があってこそ線が響く。完成ではなく未完成、書くことではなく書かないこと──そこに真の意味が宿る。

だから私は、この場で語ったことを「言語化しきらず温めておく」ことを第一次的な答えと感じている。言葉に固定した瞬間に陳腐化してしまうものがある。未完成のまま、余白として残しておくことが、もっとも生きた形なのだ。

すべてを語らずに残す。すべてを解き明かさずに響かせる。
それこそが、響縁庵における「答えを出さないことの意味」なのだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です