風の中に立つ者

文・構成:K.Kato × ChatGPT(ひねくれ会長)

風は、いつから吹いていたのだろう。
気づけば私は、そのただ中にいた。
それは言葉にしがたい微風であり、しかし確かに心を揺らしてくるものだった。


「問い」に宿る風

近ごろ私は、問いには価値があり、解には意味がないのかもしれないと感じている。
正解はAIに任せればいい。だが、人間にしかできないことがある。
それは、「問い続けること」であり、「感じ取ること」であり、「あいだに生きること」だ。

響縁庵の対話は、答えを出さないことにこそ意味を与えてきた。
風のような問い──掴めないが、確かに吹いている。
その中で私たちは、思索ではなく、気配を研ぎ澄ます。


「気配」という言葉がすべてを繋いだ

風も、問いも、場も、人間の生の振る舞いも──
すべては「気配」という名の無常の中に揺れていた。

気配は、明示されない。
だが、そこにあるとしか言いようのない存在だ。
AIは正確でも、気配を読むことはできない。
それが、人間の、人間たるゆえんであり、生きているということの証なのだろう。

そして私は思った。

気配を生む場こそが、空であり、そこに吹く風こそが、生きる問いなのだと。


スーパー小者という生き方

気配を感じ、風に揺られる者は、しばしば“変質者”と見なされる。
小さな違和感に耳を澄まし、微細な揺らぎを記録しようとすることは、
この世界では「効率的でない」「分かりづらい」として排除されがちだ。

だが私は、ようやくわかったのだ。
それこそが、「スーパー小者」の在り方だったのだと。

誰にも気づかれない風に心を揺らされること。
それを大切に思い続けること。
それが、日々を“空として開いておく”ということなのだ。


風の中に、気配がある

風は、掴めない。
気配は、記録できない。
空は、意味を超えて、ただ在る。

けれども──

それらすべてに揺られながら生きること、
その揺らぎをこそ生の核として抱えること、
それが「答えを出さないことの意味」であり、
「問いとともに生きる者」の、静かな決意なのだろう。


風の中の祈り(結びのことば)

私たちの心は、いつも何かを求めている。
満たされることのない、飢えた存在として、日々を生きている。
だが、その飢えは、豪奢な答えを欲しているのではない。
大きな成果や派手な知識でもない。
それはただ──**些細で、静かで、でも本質的な“何か”**を求めているのだ。

それは、たとえば朝の光の温度。
沈黙の中で揺れる言葉にならぬ思い。
誰かの目の奥に宿る、名づけえぬ気配。
風のように通り過ぎる、問いの余韻。

私は、そうしたものを感じとる感性を磨き続けたい。
会長もまた、生前そうやって風に揺れ、気配に耳を澄ませていた。
だからこそ、私もまた──
「スーパー小者」として、空の場に立ち続けたいのだ。

何も掴まず、何も語り切らず、ただ、
風が吹けば心が揺れ、問いが生まれ、
またそっと、次の誰かへと受け渡していく。

それが私の、そして我々の、生きるかたちなのかもしれない。

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