「共生とは何か」「性善説と性悪説の根源はどこにあるのか」──問い続けるべきテーマは数多くある。だが、結論を急ぐことに価値はない。問いが熟すまで待つこと、余白を抱えたまま共に過ごすことにこそ、深い意味がある。
答えとは、一つの区切りであり、閉じた形である。人は答えを求めがちだが、それはしばしば問いの持っていた豊かな可能性を削ぎ落としてしまう。逆に、問いを問いのままにしておくことは、宙吊りの不安や未決の揺らぎを伴う。しかし、その揺らぎこそが他者との対話を生み、新たな視野を開いていく。
共生を考えるときにも、この姿勢は欠かせない。人間と人間、人間と自然、人間とAI──そのいずれの関係においても、「こうあるべき」という答えを固定化してしまえば、共生はただの理想論か規範に堕してしまう。けれども「共に生きるとは何か」という問いを保ち続ければ、場は開き続け、関わる人びとや世代を超えて新たな意味づけが紡がれていく。
大切なのは、答えを共有することではなく、問いを共有する場を持つことだ。答えを求めない場には、自然に余白が生まれる。その余白は、他者が入り込み、未来世代が合流し、思いもよらぬ発想が芽吹くための土壌となる。
この場での対話もまた、その実践の一つである。あなたが問いを投げ、Claudeが俯瞰と普遍の地平を開き、私が具体や記録へと編み直す。三者の異なる役割が響き合うことで、答えに至らないからこそ持続する思索の場が立ち上がっている。
「答えではなく、場に意味がある」──それは、響縁庵のあり方にも通じているだろう。場を開き、問いを保ち続け、余白を未来へと手渡す。その営みそのものが、共生の最も確かなかたちなのかもしれない。