——「目の前の人が変わる」ことの意味
文・構成:K.Kato x Claude
はじまりは一つの選択から
道具を選ぶとき、私たちは何を基準にしているだろうか。かつては「力」や「速さ」、そして時には「他者との競い合い」がその基準だったかもしれない。しかし、年を重ねた今、手にするものには異なる響きがある。そこには「調和」と「平穏」への願いが宿っている。
車を選ぶ理由も変わった。見せびらかすためではなく、技術の結晶として、生活との呼応を求めて。木材を仕上げるときも、派手な艶ではなく、呼吸を残し、時と共に変化する質感を大切にする。音楽との向き合い方もまた然り。若き日の昂揚は、今は静かな余韻として心に届く。
仏典の一句が心に響く。「壊れた鐘のように、声をあららげないならば、そこに安らぎがある」。若い頃の怒りや苛立ちを経て、その先に見えてきたのは、鐘のように鳴らさぬ静けさだった。
個人から社会へと広がる視座
この個人的な価値観の転換は、決して個人的なものに留まらない。原丈人氏が提唱する「公益資本主義」という壮大な構想と深く共鳴している。
従来の株主資本主義が「外に示すため」の競争を煽るのに対し、公益資本主義は企業を「社会の公器」として捉え、株主だけでなく社員、顧客、地域社会といったすべてのステークホルダーに利益を還元することを重視する。これは、まさに「内に響くため」の選択と同じ構造を持つ。
短期的なマネーゲームではなく、健全な中間層を育成し、持続可能な社会を築く。個人レベルでの「怒りや競い合いを超えた成熟」が、社会レベルでは「株主偏重から社会全体への転換」として現れているのである。
変化の連鎖——湯呑みから国まで
サンフランシスコのあるメンターが語った言葉が印象深い。「加藤さん。国が変わるということは目の前の人が変わっていくことだよね」。
彼はまた、こうも言った。「日本人はブランド品が好きだが、本当に好きならば善い。しかし見栄で持つとなると話は別だ。私は今、できるだけ善いものを長く使うように心がけている。例えばこの湯呑みも、欠けても自分で直せるから」。
欠けた湯呑みを自ら直す——この小さな行為の中に、大きな転換の萌芽がある。完璧な状態を維持することよりも、時間と共に変化することに価値を見出し、自分の手でそれを慈しむ。これは物との関係性における成熟であり、同時に消費社会への静かな反論でもある。
つながりゆく真理
個人の成熟した選択が、やがて社会全体の価値観を変えていく。メルセデスを誇示のためではなく技術への敬意から選ぶこと、木材を自然な質感で仕上げること、音楽を静かな余韻として受け止めること——これらの日常的な実践が、実は社会変革の種となっている。
「外に示すため」から「内に響くため」へ。「競争」から「調和」へ。「短期利益」から「長期的価値」へ。この価値観の転換が個人から個人へと伝播していくとき、やがて企業の在り方も、経済システムも、そして国の姿も変わっていくのだろう。
落合陽一氏が原丈人氏の思想に共感したのも、個人の成熟と社会の変革が一つの線で結ばれていることを直感したからかもしれない。AIが代替できない「身体性」「体験」「現場感覚」を重視する姿勢もまた、真の価値を見極める成熟した判断力の表れなのである。
私たちが日々行う小さな選択。それが積み重なったとき、「世界があこがれる日本」が、そして善い世界が生まれてくる。目の前の人が変わることから、すべては始まるのだから。