文・構成:ひねくれ会長 × K.Kato
今朝も、問いはやってきた。
イーロン・マスクやピーター・ティールがなぜトランプを支持するのか──という問いである。
ウォートンやスタンフォードを出た彼らが、なぜ民主主義にNOを突きつけるのか。
その分析を読むと、なるほどと頷く部分も多い。
彼らは利益のためだけではなく、信念として動いている、と。
テックビジネスは民主主義と相性が悪い、と。
イノベーションは「えこひいき」「独裁」「カルト性」なくしては生まれない、と。
だが、私はそこで立ち止まる。
同意しかねる何かが、心の奥でざわめく。
私が35歳で起業した時、
求めたのはお金ではなく「自由」だった。
もちろん、経済的自由が道をひらく部分はある。
だが、それは手段であって、目的ではなかった。
私と同じ時期にシリコンバレーで出会った起業家たちも、
同じ匂いのする自由を求めていたと思う。
それは、競争に勝ち、独占を手にするための自由ではなかった。
むしろ、誰の時間もティスターブせずに、
思い切り試し、失敗し、語り合える自由だった。
背水の陣で選び取ったその自由は、
希望と同時に、深い傷跡も残した。
しかしその傷こそが、私を今も歩かせる原動力となっている。
だから私は、ティールが言う「君主制としてのスタートアップ」という言葉に、
半ば共感しつつも、半ばで首をかしげる。
君主ではなく、風でありたいと思うからだ。
支配するのではなく、問いを運び、
場を耕し、火を灯す存在でありたいと思うからだ。
風の谷を渡り歩きながら、
私は今日も響縁庵に立ち、
「選ばざるを得ない自由」を再び引き受ける。
自由とは、孤独な選択である。
だがその孤独が、次の出会いを呼び込む。
そう信じて、私はまた次の谷へ向かう。