Ⅰ.「考える自力」という問いの再来
昨日のCoMIRAIスフィアでは、哲学者の竹中先生、認知科学者の足立先生らを交え、「考える自力」という言葉をめぐって深い議論が交わされた。
竹中先生はアリストテレスの文章を引き合いに出し、思考とは外部から与えられた情報を並べることではなく、「自己のうちに秩序を生み出す営み(自力)」であると語った。
一方で足立先生は、経済合理性が思考をどのように縛っているかについての以前から用いている「円錐モデル」について言及し、資本主義社会が「考える力(思考停止)」を市場原理の中に吸い込んでしまっている現状を指摘した。
この二つの視点が交差した瞬間、「AIが考える」時代における人間の思考とは何か、という根源的な問いが立ち上がった。
合理と感情、効率と意味。そのはざまで人間はいかにして自ら考えうるのか――。
Ⅱ.AIが映し出す「思考の限界」
その問いを象徴するかのように、竹内薫氏がアップルの論文を引き合いに出す。
大規模言語モデル(LLM)に「ハノイの塔」を解かせたところ、AIはある段階で思考を停止した。
この結果は、AIがどれほど高度な生成能力を持っても、**「内省」や「構造変換」**という思考の飛躍を欠いていることを示している。
AIは言葉を操り、知識を結合する。だがそれは「すでにある秩序」を再構成する作業にすぎない。
それに対して人間の思考は、秩序の外側を見つめ、そこに意味の空白を発見するところから始まる。
「考える自力」とは、まさにこの空白に耐え、問いを生み出す力にほかならない。
Ⅲ.リベラルアーツと数理知の交差点
CoMIRAIスフィアの議論では、リベラルアーツ(教養)の再評価が中心に据えられた。
アリストテレス的思索のように、「なぜ」を問う力を鍛えることが、情報過多の時代における唯一の羅針盤となる。
一方で竹内氏は、AIや量子コンピュータの背後にある**数学的思考(数理知)**の重要性を強調する。
この二つは対立するものではない。
リベラルアーツは思考を広げ、世界に意味を見出す力を育む。
数理知は思考を構造化し、世界を精密に記述する力を磨く。
両者が交わるとき、人間の知は「抽象と感受」「論理と直観」を往還し、AIには到達できない創造の領域を開く。
Ⅳ.感情と合理のあいだで
AIがいかに進化しても、人間社会を動かすのは感情である。
戦争も経済も、最終的には「好き」「嫌い」「納得できない」といった非合理が基底にある。
竹内氏が言うように、AGI(汎用人工知能)が本当に社会で機能するには、感情の理解と共感の能力が不可欠だ。
しかし、人間自身がその感情を理解していなければ、AIの模倣も意味をなさない。
リベラルアーツが鍛えるのは、まさにこの自己感情への洞察力であり、数理知が鍛えるのは世界を冷静に見る分析力である。
この二つを同時に内に育てること、それが「考える自力」の現代的定義となる。
Ⅴ.AI時代における「人間の再定義」
AIは私たちの思考を代替するのではなく、思考の本質を映し出す鏡となっている。
そこに見えるのは、便利さと引き換えに失われつつある「考える筋力」だ。
AIが加速させるのは効率ではなく、問いの消失かもしれない。
だからこそ、今こそ人間は「考えること」を取り戻さねばならない。
それはAIに抗うことではなく、AIとともに新しい知の地平を開くこと。
リベラルアーツと数理知という両輪を携え、私たちは再び「真理を見つめる目」を取り戻すときに来ている。
結語
考える自力とは、AIによって奪われるものではない。
むしろAIという他者を通して、私たちは自らの知を再発見する。
リベラルアーツが人間の魂を照らし、数理知が世界の構造を照らす。
そのあいだに立ち、ゆらぎながらも思考を続けること。
そこにこそ、AI時代を生きる人間の尊厳がある。

