十一月三日、午後二時。
八王子駅に隣接するJ:COMホール。
秋の澄んだ空気が街を包み、やわらかな陽がホールのエントランスに射し込んでいた。
東京交響楽団の恒例となった八王子での定期演奏会。
前半は千住真理子さんのヴァイオリン、ストラディバリウスとの共演。
後半はドボルザークの交響曲第八番。
ともに心を震わせる名演であったが、私の心に深く残ったのは後半のドボルザークであった。
ドボルザーク第八番は、明るさと陰影がせめぎ合う生命の交響。
郷愁と歓喜が入り混じり、旋律のひとつひとつが大地の息吹を運んでくる。
東京交響楽団の演奏には、その自然の呼吸があった。
しかし帰宅後、他の演奏を聴くと、驚くほど印象が異なる。
同じ楽譜であっても、指揮者の解釈、オーケストラの感応によって、まるで別の風景が立ち上がる。
音楽とは、書かれた音符の再現ではなく、「いまここ」で生まれる関係の芸術なのだと痛感する。
名演とは、指揮者と奏者、そして聴衆が、ひとつの生成する場を共有すること。
その呼応の中で、音は単なる振動を超え、生命の声となる。
そのことを、前半の千住真理子さんの姿が雄弁に語っていた。
一曲目と二曲目のあいだ、十名ほどの観客が遅れて入場してきた。
彼女は静かに弓を下ろし、演奏の開始を止めた。
観客が着席し、場が整うのを待ってから、ふたたび音を紡ぎ始めた。
その姿には、聴く者への思いやりとともに、演奏家たちの集中を守ろうとする深い気づかいがあった。
それは同時に、彼女自身と、彼女が手にするストラディバリウスへの敬意の表れでもあった。
音を出す前に場を鎮め、沈黙を大切にする。
その「待つ」という行為のなかに、音楽への祈りが宿っていた。
私はその光景に、「一期一会」という言葉を思い出した。
舞台上のすべて──指揮者、演奏家、聴衆、そして楽器までもが、
この一昼のために集い、ひとつの呼吸をともにしている。
その儚さを知る者だけが、真に“いま”を奏でることができるのだろう。
音楽とは、響きのうちに人の心が交わる場であり、
それを聴くことは、他者と、そして自己との静かな対話である。
同じ楽団を聴き続けることで、その呼吸の変化、成熟の過程を感じ取ることができる。
それは、単なる鑑賞を超え、共に生きる修行のようでもある。
午後の光とともに始まった八王子の演奏会。
その響きは、音が消えたあとにもなお、
心の奥で静かに呼吸を続けている。

