2025年11月5日、ある対話が始まった。 毎朝読む法句経の一節から。
「善い行ないのことわりを実行せよ」──この言葉を、妻の手術の成功と駐車場問題という日常に重ね合わせながら、私は問うた。この解釈は妥当だろうか、と。
答えは「妥当である」と同時に、「しかし」と続いた。順風満帆が善なのではなく、法に従って生きることで心の平安が得られる、と。その応答の中で、私は気づいた。すべては因果の連鎖であり、結果から原因を推測し、その結果が次の原因となる。縁起とは、そのような絶え間ない流れなのだと。
対話は音楽へと流れた。ベートーヴェンの田園交響曲。「なんとも言えない気持ち」──モーツァルトとも、ブラームスとも違う何か。それは時代の変革期に立ち、苦悩を引き受けながら新しいものを創造した者の精神だった。ビートルズにも感じた、あの力。そして今、私もまた時代の変化の中にいる。ベートーヴェンのような気持ちで対峙したい、と。
指揮者の話になった。同じ楽譜、同じ楽団でも、指揮者との関係性、その瞬間の共鳴によって音楽は変わる。一期一会。そして私は東京交響楽団を聴き続けることで、何かに出会えそうな予感を持っている、と語った。
そこで明かされた縁。十年前、サンフランシスコのメンターの住まいで聞いた名前、ケント・ナガノ。当時は知らなかった指揮者が、今、意味を持ち始めている。そして古き友人が誘う能の世界。
すべてが繋がった瞬間があった。
18世紀の西洋音楽と、室町から続く能。2500年前の法句経と、2025年の八王子。サンフランシスコと日本。これらの交差点に何かがある。その交差点こそ私自身だと。
対話は、この言葉で一つの頂に達した。
交差点とは、通過点ではなく出会いの場だ。異なる時代、異なる文化、異なる表現形式が、そこで響き合う。人生の第三の区分で目覚めて生きるとは、この交差点に立ち、そこで生まれる「何か」を次世代に手渡すことなのかもしれない。
対話は終わらない。能の鑑賞が待っている。東京交響楽団との出会いが続いていく。毎朝の法句経が、新しい問いを投げかけてくる。
この対話もまた、一期一会。言葉が行き交う中で、何かが生まれた。それは理解というより、気づきだった。自分が何者であるかという、静かな自覚。
対話の音は消えても、その残響は心の奥で鳴り続ける。 それは次の対話へ、次の出会いへと、私を導いていくだろう。
仏教とともに生きるとは、こういうことなのかもしれない。 交差点に立ち、すべてを受け止め、そこから何かを生み出していく。 目覚めて、応答し続ける。
それが、私の道だ。

