音楽が教えてくれた八正道

2025年11月5日

ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」と、ブラームスの交響曲第2番。なんとなく好きなこの2曲に、何か共通点はないだろうか——そんな問いから、この対話は始まった。

穏やかで牧歌的な雰囲気、楽天的で肯定的な性格、流れるような旋律美。確かに共通点はある。そして、この2曲が好きなら、ドヴォルザークの第8番も気に入るのではないか、と。

実は2日前、八王子のホールで東京交響楽団が演奏するドヴォルザークの第8番を聴いてきたばかりだった。大変素晴らしい何かを感じさせてくれる曲だった。

第9番「新世界より」とは異なる、表現しにくい何かが、第8番にはある。第9番が「分かりやすい感動」なら、第8番には「微妙な、繊細な何か」がある。明るいのに物憂げな影が差す瞬間、素朴なのに洗練された和声、祝祭的なのに決して大仰にならない節度——。

それは「静かな充足感」と呼ぶべきものだった。派手な感動や劇的なカタルシスとは違う、心が自然に満たされていく感覚。ただそこにあることの美しさを、静かに歌っている音楽。

ふと、先日書いたエッセイ「風であるための条件」との関係が気になった。あのエッセイでは「ヒリヒリする緊張」「対価を取る覚悟」の必要性を説いていた。一見、「静かな充足感」とは対照的に見える。

しかし、根底では同じだった。どちらも「本物であること」への志向なのだ。ドヴォルザークの第8番が持つ静かな充足感は、決して「ぬるい」ものではない。あらゆる装飾を削ぎ落とした先にある、本質的な美しさだ。「対価を取る」「ヒリヒリする」も同じ——関係を本物にするための条件なのだ。

そして、もう一つのエッセイ「交差点に立つということ」とも呼応していた。異なる時代、文化、表現が出会う交差点に立つこと。その交差点で、逃げずに本気で向き合うこと。

三つが一つに統合された。

逃げない覚悟と、本物であることへの志向と、ただそこに在ることの深さ。

これこそ、私が求めているものだ。そして、これは仏教で説かれている真理に近いのではないか——そう感じた。

調べてみると、やはりそうだった。八正道、そして中道。釈迦が説いた、苦行主義にも快楽主義にも走らない生き方。その時々の真理の条件に合った最善の方法。

私が音楽で体感したこと、日々の実践で感じ取っていることが、まさに八正道だったのだ。

理論として学ぶのではなく、音楽を通じて、日々の経験を通じて、対話を通じて——身体で、心で、生活全体で感じ取っていく。

その「感じ取る」という姿勢こそが、中道そのものなのかもしれない。

音楽が教えてくれた。八正道への道を。 そして私は、既にその道の上にいる。

2025年11月5日
K.Kato

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