朝の平穏を歩く──外界と内界の間に宿るもの

朝のウォーキングを始めて五日が経つ。曇り空の下、放射冷却のない柔らかな空気が身体を包む。晩秋の土手の静けさの中を、心拍95ほどの穏やかなリズムで2キロ余りを歩くと、外界の揺れに対して自分がどれほど敏感であるかがよくわかる。すれ違う人の気配に心が揺れながらも、その揺れに気づいている自分がいる。そこからそっと、呼吸や足裏の感覚、雲の厚みへと意識を戻していく。これが、私にとっての「心の整え方」になり始めている。

歩きながら聴いたのはエルガーの弦楽セレナーデ作品20。ヘンデルも試したが、今日の曖昧な光と湿り気を含んだ空気には合わなかった。選び取ったのは、オルフェウス室内管弦楽団の柔らかく自律した響きだった。これは理屈ではなく、身体がその日の気配に最も調和する音を選んだのだと思う。

白山神社に着き、今日もここに来られたことへの感謝と、皆の無事を祈る。この祈りの姿勢は、今朝開いた法句経の偈とも響き合う。「外面的なことに心を奪われるな。本質を見よ。」血圧の数値に気を配りつつ、その奥にある自分の調子を聴こうとする心の姿勢もまた、この教えと呼応している。

私が求めているのは、自らの心の平穏であり、そのための“外界との接し方”なのだと、歩きながら静かに気づいた。毎朝のこの営みが、心の目を澄ませる小さな修行になりつつある。

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