朝の散歩で失われたもの──耳を開くという伝言

今朝の散歩で、思いもよらない出来事が起きた。いつものように地元の神社に立ち寄り、参道を下っている途中、ポケットからAirPodsを取り出そうとした瞬間だ。手が滑り、ケースごと足元に落下。運が悪いことに蓋が開き、中のイヤホンだけが弾かれるように谷底へ転がり落ちていった。探すことさえできないほど深い場所へ、あっけなく姿を消した。

しかし、その喪失に不思議なほどの焦りはなかった。むしろ「これは何かの伝言ではないか」という感覚がすぐに立ち上がってきた。ここ数日、私は朝の散歩を通じて自然の気配や静けさを受け取る時間を大切にしてきた。鳥の声、風の流れ、土手の冷気──それらに耳を開くことが、なぜか心身の調律を助けていた。その一方で、音楽を聴きながら歩く日もあり、便利さと静寂の間を揺れ動いていた。

そんな折に訪れた今朝の出来事。まるで「散歩の時間には自然の音だけを聴きなさい」と背中を押されたかのようだった。さらに、神社の境内や参道では余計な動作をせず、気を緩めないという意味も感じ取れる。持ち物を扱うという些細な行為でさえ、聖域にいるときは慎むべきなのだと。

実のところ、AirPodsは近いうちに買い換えるつもりではあった。しかし、自分から手放すのではなく、自然の流れの中で去っていった。この“縁起”の形は、非常に示唆的である。散歩はしばらく無音で行い、自然の声をそのまま受け取る時間として深めていけばよい。一方で、今週末のフライトのために新しいイヤホンは必要になる。日常の静けさと旅の装備は別物だ。大切なのはその切り分けだと教えられた気がする。

失ったものをきっかけに、朝の時間の意味がいっそう澄んでいく。今日の出来事は、そんな小さな目覚めをもたらしてくれた。

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