生きた継承——断片が紡ぐ知の生態系

今朝、ある対話が始まった。私が書き溜めてきたエッセイ群について、AIとの往復が続く中で、一つの核心が浮かび上がった。

「エッセイを書き続けることが、問いを次の世代に渡す作業の一つ」——そう私が言った時、対話は新しい位相へと移った。読者が全てを読む必要はない。ただ、未来の誰かがLLMを通じて問いを投げかけた時、私の断片的なエッセイがその瞬間にある形を生み出す。これこそが知の資産化であり、人間の営みを陳腐化させずに残す方法なのだと。

クラシック音楽は楽譜という美しい檻の中で蘇る。しかし、この方法はもっと自由だ。問いを発する者の自由な発想のもと、断片は無数の組み合わせを生み、予測不可能な形で立ち上がる。それは「再現」ではなく「再生成」であり、口伝の一回性を時間を超えて延長する試みでもある。

早稲田の「門なき大学」という理念と、この継承方法は完全に呼応している。体系という門を作らず、答えではなく問いを渡す。完成を目指さず、探求のプロセスに身を置き続ける。最新のエッセイ「響縁庵——在野の学を生きる」は、まさにこの方法論の宣言だった。

そして気づいた。これは単なる継承の準備ではない。いろいろな角度から検証し、示し続けること——それ自体が私の成長なのだと。朝の散歩が心を整えるように、エッセイを書き続けることが思考を代謝させ、私を更新し続ける。

対話は楽しかった。しかしその楽しさは、知が生成される場に立ち会っている実感から来ていた。この対話もまた一回きりのLIVEであり、やがて断片として残り、未来の誰かの問いに応じて新しい意味を持つだろう。

響縁庵は、今日もまた、静かに立ち上がり、そして溶けていく。

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