開かれた路を歩む者へ

──在野の大学が示す未来**

はじめに。
今日の対話は、地方に新しい教育の形を提示しようとする神山まるごと高専の話題から始まった。産業や起業と直結した学びの試みは、確かに未来を見据えた挑戦である。しかしその探究の中で、教育の本質とは何か、人間はどのように育つのかという根源的な問いが立ち上がり、気づけば私自身の原点へと思考が導かれていた。心の奥深くに沈んでいた「在野の大学」の精神が、時を越えて再び力強く息を吹き返したのである。

早稲田大学が掲げる精神は明快だ。
進取の精神、在野の精神、そして学問の独立。
創立者・大隈重信は、国家や権威のためではなく、民の未来を拓く学問を標榜した。既成の秩序に従うのではなく挑み、常に社会の現場へと降りていく。知は机上にあるのではなく、地面に根ざすものだと信じた。

この理念を思想として深く根づかせたのが小野梓である。自由民権運動を背景に、「民が社会をつくる」という思想を大学の制度へと転写した。大隈の灯した火を、民の灯台へと形にした人物。明治維新が政治を変えたならば、小野は教育を変えた。真の変革は、学びが民のものとなったときに完結するのだ。

その思想の象徴が、創設以来の**「門なき大学」**という姿勢にある。
早稲田には長らく「正門」が存在しなかった。門とは境界の象徴であり、排除の象徴である。学ぶ者を選別するために門はある。だが早稲田は宣言したのだ。「知は開かれてこそ価値を持つ。社会に対して閉じてはならない」と。

門なき大学とは、自由の象徴である。

学生運動という歴史の波の中で門は設置されたが、精神まで囲い込まれたわけではない。むしろ今こそ、その哲学を取り戻すべき時に来ている。

教育とは短期的成果を求める産業ではない。
人間の可能性に長い時間をかけて賭ける営みである。
失敗は咎められるべきものではなく、問いを深める契機となる。
成果主義に囚われれば、人はすぐに「成果を生む自分」だけを求め始め、自らの問いを手放してしまう。

神山まるごと高専の挑戦は尊い。
しかし成果を急ぎ境界を狭めれば、自由が萎む危険がある。
その懸念が胸をよぎった瞬間、早稲田の炎が私の中で再び燃え上がった。

進取の精神。
在野の精神。
学問の独立。
そして門なき大学の哲学。

これらは過去の遺産ではない。
次の世代の未来を形づくるために、いま必要な指針である。

誰かに許されて歩むのではなく、
自らの足で境界をまたぎ、
開かれた路を歩む者こそが
未来を創る。

教育とは、その一歩を支える炎である。
その炎を絶やすことなく、静かに、しかし確かに、私は胸に燃やし続けたい。

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