縁起の中で生きる ― 対話から見えたもの

今朝書いたエッセイについて、対話を重ねる中で、自分の中にある思想の輪郭が少しずつ明らかになっていった。

仏教の執着を手放すこと、資本主義の所有の問題、M&Aにおける継承の在り方、毎朝の神社参拝、スナフキン的な生き方――これらはすべて、一つの核心へと向かっていた。それは「縁起の中で生きる」ということだ。

言葉で理解することと、心身がそれに伴うことは別問題である。法句経を毎朝読み、「心の平穏」の大切さを頭では理解していても、実際に嵐の中で凪を保てるかは全く別の次元だ。だからこそ、毎朝8分歩いて神社に参る。日々の反復的な実践を通じて、少しずつ言葉が身体に染み込んでいく。

大手町での再会も、そうだった。古巣に帰ったようでいて、自分はVisitorである。その二重性を寂しさではなく、ワクワクとして受け止められたのは、「場を所有しない」という境地に少しずつ近づいているからだろう。場を制御しようとする衝動を抑えること――それは「場を害さない」という積極的な実践であり、スナフキンが何も所有せず旅を続けたことと同じ意味を持つ。

本来、社会資産とは先代から受け継ぎ、次世代に渡すものだった。しかし大量生産大量消費の資本主義は、すべてを私的所有物に変えてしまった。M&Aの世界でも同じ問題が起きている。成約時に報酬が確定する仲介の仕組みは、短期的所有と利益の追求を促し、本来継承すべき価値を見失わせる。

若き起業家たちに伝えたいのは、成功の方法ではなく、「どう手放すか」「どう縁起の中に生きるか」なのかもしれない。

そして今朝、対話の終わりに流れてきたショパンのスケルツォ第4番。セレンディピティと一期一会。すべては縁起によって生じ、この瞬間にしか現れない。

凪の心とは、その縁を受け取る器であり、二度とない出会いを生きる覚悟なのだと思う。

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