今朝、KDFCから流れてきた音楽は、偶然ではなく、今の自分の内側と静かに共鳴していた。ドヴォルザークの交響曲第8番。先月、JCOMホールで東京交響楽団の演奏を身体ごと受け止めた記憶がよみがえり、音は単なる「再生」ではなく、時間を越えた再会となった。そこには生命への肯定があり、重すぎないが確かな熱があった。
続いて耳にしたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲Op.64には、さらに透明な華やかさがあった。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が、深い闇を通過した末の光だとすれば、メンデルスゾーンの光は、世界をまだ信じることができた時代の、重力を必要としない輝きだ。ロマン派初期、その均衡の取れた地点だからこそ生まれた澄んだ音楽である。
思えば、19世紀の作曲家たちは、多くが若くして亡くなっている。医学も社会保障も未成熟な時代、彼らは決して安定した生活の中で創作していたわけではない。それでも、時代の大きなうねりをまともに引き受け、何かを生み出さずにはいられなかった。その切実さ、その熱量こそが、ロマン派音楽の凄みなのだと思う。
この姿は、今の起業家とも重なる。成功の指標としてのお金は確かに重要だが、最大のリターンは自由だ。しかし自由とは、好き勝手に振る舞うことではなく、自ら決め、その結果を引き受ける覚悟のことだ。かつてアメリカが魅力的だったのも、この自由と責任の感覚が民主主義として共有されていたからだろう。
音楽を聴きながら、私は改めて感じている。ロマン派の作曲家たちが燃え尽きるように残した問いを、私たちは今、持続可能なかたちで引き継ぐことができるのではないか。凪を保ちつつ、自由を引き受け、何かを生み出す。そのための静かな指針が、今朝の音楽には確かに宿っていた。

