傍観者としての責任

――静かなMOVEMENTの必要性について

私は、改革を声高に叫ぶ立場にはいない。
ましてや若い世代を鼓舞したり、既存の構造を断罪したりする役割を担うつもりもない。ただ、長く組織の内と外を行き来し、アカデミアと企業の双方を眺めてきた者として、ある種の「気配」を感じ続けている。

それは、若い人たちのエネルギーが、行き場を失い、少しずつ摩耗していく気配である。彼らに意欲がないわけではない。むしろ逆だ。問いを持ち、学び、挑戦しようとする力は確かに存在している。ただ、その力が向かう先が、制度や慣習によって巧妙に逸らされているように見える。

この状況は、若者の責任ではない。ましてや、個々の上司や指導者の善意・悪意の問題でもない。むしろ、私たち自身が長い時間をかけて作り、守り、引き継いできた仕組みの自然な帰結なのだろう。講座制や年功的な意思決定、失敗を避ける文化は、かつては合理性を持っていた。しかし環境が変わった今、その合理性は静かに失われつつある。

だからこそ必要なのは、対立や告発ではなく、静かなMOVEMENTだと思っている。声を荒げず、旗を振らず、誰かを説得しようともしない。ただ、「別の判断の仕方」「別のエネルギーの使い道」が存在することを、淡々と示す動きである。

この役割を担うのは、若者ではない。彼らにそれを求めるのは酷だ。むしろ、すでに多くを経験し、評価や地位から自由になりつつある私たちの世代が、半ば傍観者の位置から、しかし責任を引き受ける形で示すべきなのだと思う。

未来に何かを残すとは、成果を残すことだけではない。判断の仕方、問いの立て方、エネルギーの流れを残すことでもある。そのための静かな動きが、今、必要とされているのではないだろうか。

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