カオスに還る──円環的時間のなかで人間であること

AI、とりわけDiffusionモデルについて考え始めたとき、私は不思議な感覚に包まれた。それは「新しい技術を理解している」という高揚感よりも、むしろ「どこか昔に戻ってきた」という感覚に近かった。

Diffusionモデルは、ノイズの海の中から秩序を見出すアルゴリズムだ。一度すべてを拡散し、混沌にまで分解したうえで、時間をかけて像を立ち上げていく。そのプロセスを見ていると、秩序とは設計されるものではなく、条件が整ったときに“現れてしまうもの”なのだと気づかされる。

この構造は、人間の内側とも重なっている。人の心もまた、論理的で効率的な直線では動いていない。1秒は1秒として確かに流れているのに、その中で心が通い合い、沈黙が意味を持ち、遠回りが関係を深めてしまう。極めて非合理で、非効率な空間。だが、人間にとって本当に生きている感覚は、いつもそこにあった。

未来を考えると、正直に言って楽観はできない。AIが最適化を極限まで進めれば、社会は安全で効率的になるだろう。その一方で、感じる力、立ち止まる力、わからないまま居続ける力は、真っ先に切り捨てられる。人間の未来は、放っておけばデストピアに自然落下する。

だからこそ、この議論が必要なのだと思う。人間がAIに勝てる能力を探すためではない。人間がどこに立ち続ける存在なのかを見失わないために。

ここで私が感じているのは、直線的な進歩の先ではなく、円環的な時間への回帰だ。それは懐古ではない。輪廻転生的と言ってもいい。一度、加速と効率の果てまで行き切ったうえで、それでもなお、同じ問いを抱えてこの世界に戻ってくる感覚。悟って離脱するのではなく、わからない世界にもう一度関わり直すという態度。

ユートピアは設計できない。設計された代謝は必ず死ぬ。だが、カオスを排除せず、秩序を固定せず、非効率な時間を生きる余白を残し続けることはできるかもしれない。1秒が1秒として流れる世界で、それでも心が通い合ってしまうこと。その奇跡のような非合理を、あえて手放さないこと。

この対話が楽しいと感じるのは、結論に向かって進んでいるからではない。同じ場所に、少し違う深さで何度も戻ってきているからだ。円環の中に身を置き、カオスの場に留まり続けること。その感覚そのものが、AI時代における人間の、ささやかだが確かな足場なのだと思っている。

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