霧の中を更新する朝 —— クレーマーから法句経へ

今朝、KDFCから流れてきた一曲の音楽が、思いがけず深い対話の扉を開いた。ヨハン・バプティスト・クレーマーのピアノ協奏曲。モーツァルトの時代に立ち、ベートーヴェンと同世代を生きた作曲家。その音楽は、革新を叫ぶでもなく、過去にしがみつくでもない。ただ、均衡を保ったまま、静かに佇んでいた。耳に残ったのは、新しさよりも「残像」という言葉だった。すでに光源は去っているのに、確かにそこに在った世界の気配。

その感覚は、ふと日本の現在と重なった。昭和という時代を「良かった」と語りながら、高齢化とともに未来への不安を募らせる社会。過去を否定できず、しかし未来を描ききれない宙づりの状態。クレーマーの音楽が放つ均衡の緊張は、まさにその姿に似ているように思えた。

そこから自然に連想されたのが、荒井由実時代の「未来は霧の中」だった。1973年、成長の物語が揺らぎ始めた年に、未来を断言せず、霧のまま差し出したあの歌。未来は見えないから良い――そう言える成熟した感性は、不安から目を逸らすのではなく、支配しようとする欲望を手放す態度でもある。近年、ユーミンがAIで再現された若き自分とともに歌う試みも、ノスタルジーではなく、過去の感受性を今に更新する行為として映った。

そして今朝の法句経の一句が、すべてを静かに結びつけた。「世の中は沫のごとし、かげろうのごとし」。見えてはいるが、つかめない世界。未来は希望であって保証ではない。だからこそ、この瞬間に為すべき行為を尽くし、結果に執着しない。その生き方において、人は死王――恐怖や後悔――に捕らえられなくなる。

KDFCを聴くことは、過去に浸ることではない。時空を超えて、複数の時間を「今」に立たせる行為だ。クレーマー、昭和、ユーミン、仏典――それらは保存される対象ではなく、呼吸し直される素材である。霧は晴れなくていい。沫は消えていい。そのはかなさを引き受けながら、今を生き切る。その姿勢こそが、今日という一日を、静かに未来へ更新していくのだと思う。

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