61歳の朝に、耳を澄ます

61歳の誕生日の朝、私は静かに対話をしていた。
それは祝福の言葉を並べるような時間ではなく、まして過去を振り返り総括するための時間でもなかった。むしろ、これまで人間が時空を超えて紡いできた芸術や思想に、もう一度、耳を澄ますための時間だった。

17世紀オランダのまなざし、18世紀から19世紀のドイツ地方で育まれた秩序と信仰、そこから分岐していったフランスや中欧、やがて混沌へとなだれ込む20世紀。マーラーの巨大な音楽、ラフマニノフの郷愁、戦後に現れた大衆音楽と現代音楽の沈黙。そして、坂本龍一の晩年に感じた、世界を代表しないという誠実な態度。それらはすべて、未来のために何かを「教えよう」としていたわけではない。ただ、世界がわからなくなったときにも、人間であり続けるための姿勢を、静かに差し出してきたのだと思う。

現代は多様性に満ちている。しかし同時に、どこへ向かうのかが見えにくい時代でもある。だからこそ、芸術はわかりやすさを拒み、答えを閉じることをやめた。現代音楽や現代美術の難しさは、解釈の困難さそのものにあるのではない。むしろ、私たち受け手の側が、急いで理解し、評価し、結論づけようとする態度を手放せるかどうか。その点に、真正面から問いを投げかけているのだ。

東京に住んでいるという条件は、便利さや情報量の多さではない。本物に、繰り返し、身体ごと触れられること。その中で、何が残り、何が引っかかり、どこで時間の感覚が変わるのかを、自分自身の中に沈殿させていくこと。それこそが、未来を直接語らずに、未来を育てる行為なのだと思う。

61歳になった今、私は未来を設計しようとは思わない。ただ、耳を澄まし続けたい。過去の芸術が残してきた態度を、今という時間の中で生き直したい。その積み重ねが、次の世代が生きる地形を、少しだけなだらかにしていくと信じている。

誕生日の朝に交わしたこの対話は、祝宴ではなく、静かな呼吸のようなものだった。問いを手放さず、答えを急がず、それでも世界との関係を断たない。その姿勢で歩んでいく一年を、私は静かに迎えたい。

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