ヴィオッティと東響──動き出す問い

音楽を聴くという行為が、いつからだろうか、完成された作品を評価することではなく、「生成の現場に立ち会うこと」へと変わってきた。コンサートホールに足を運ぶたび、私が耳を澄ませているのは、楽曲そのもの以上に、楽団と指揮者がいまどこに立っているのか、という一点である。

東京交響楽団を聴き続けたいと思うようになったのは、ジョナサン・ノットが音楽監督を務めた時間を通して、この楽団が「待つこと」「沈黙を引き受けること」を身体化してきたと感じたからだ。ブルックナーの音楽が、無理なく鳴り得る地点に到達した——その変化を確かめたいという思いが、私をホールへと向かわせる。

そしていま、ロレンツォ・ヴィオッティという存在が、その時間に新しい運動を与え始めている。次期音楽監督として関わる彼は、ノットが築いた「耐える身体」を壊すことなく、そこに推進力を注ぎ込もうとしているように聴こえる。立ち止まったまま深まる時間に、構造的な前進が重ねられていく感覚。ブルックナーからシェーンベルク、そして現代作品へとつながる流れの中で、楽団そのものが変化の只中にある。

この感覚は、仏教的な問いとイノベーションの関係にも似ている。答えを急がず沈潜する運動と、社会に向けて前進する運動。そのどちらかではなく、現実は常に両者を同時に要求する。止まれと言われながら進み、進めと言われながら立ち止まる。その混沌の中でしか、本当の問いは動き出さない。

だからこそ、すべてのコンサートは一期一会になる。同じ楽団、同じ指揮者、同じ曲であっても、二度と同じ自分では聴けない。その事実を引き受けて場に身を置くことが、私自身を静かに、しかし確かに豊かにしてくれる。ヴィオッティと東京交響楽団が生み出しつつあるこのMOVEMENTに立ち会えること——それ自体が、すでに一つの答えなのだと思っている。

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