雨上がりの朝、いつもの日課として近くの神社へ足を運び、静かに手を合わせた。特別な願いがあるわけではない。ただ一日の始まりに、自らの呼吸と心の位置を確かめるための時間である。その帰り道、土手に上がると、街は霧に包まれていた。前日の天気予報で霧が出ると言っていたことを思い出し、岡の上から見ればどう見えるだろうかと、確かめるように立ち止まった。
視界の先では、輪郭を失った建物や木々が、遠近の感覚を曖昧にしながら静かに佇んでいる。雨を含んだ枝先には無数の水滴が残り、わずかな光を受けて、今にも落ちそうな緊張感を湛えていた。その一粒一粒が、この瞬間にしか存在しないことを、言葉なく告げているようだった。
何気ない風景に、心が動くことがある。意図して探した美ではなく、祈りを終え、評価や目的から離れた心に、世界のほうからそっと差し出される美しさ。霧も水滴も、次の瞬間には形を変え、やがて消えていく。まさに一期一会であり、諸行無常だ。
この瞬間を生き切るために、感じ取り、切り取り、その残像――残響を味わう。握りしめるのではなく、余韻として心に響かせる。そうした瞬間の連なりこそが人生なのだと思う。少しでも釈尊が説いた世界に近づこうともがきながら、今日もまた、静かな一歩が積み重なっていく。

