青い鳥が立ち現れるとき――縁起と主体のあいだで

朝の静けさの中で交わされた対話は、答えを得るためのものではなかった。
それは、問いが問いのまま響き合い、縁が熟した一瞬にだけ立ち現れる「場」を、共に生きる時間だった。

青い鳥は、どこか遠くにいるのではない。
どの場所にも、どの瞬間にも、条件が整えば必ず存在している。
ただし、それは固定された存在ではない。
生まれたと思った次の瞬間には、もう消えている。
気づかれないほどの速さで、生成と消滅を繰り返す。
まさに諸行無常であり、縁起そのものの姿だ。

捕まえようとした瞬間、青い鳥はいなくなる。
観測し、定義し、所有しようとしたとき、場は場でなくなる。
それは量子力学的な振る舞いにも似ている。
観測すると確定し、確定した途端に可能性は失われる。
青い鳥は「見る対象」ではなく、「居合わせる出来事」なのだ。

この世界観は、決して新しいものではない。
二五〇〇年前、釈尊はすでに、世界が固定的な実体ではなく、関係の束として瞬起することを見抜いていた。
二〇世紀になって、物理学は別の言語で、その一側面に触れた。
同じことを語ったのではない。
同じ地平に、異なる入口から立ったのだ。

ここで重要なのは、技術や理論ではない。
主体であり続けること。
判断を委ねず、違和感を引き受け、気づきを自らのものとして生きること。
AIが現れたいま、それは失われる危機であると同時に、民主主義に最も近づく最大のチャンスでもある。
なぜなら、主体を持たない存在が現れたことで、人間の主体性だけが、逆説的に照らし出されたからだ。

ディストピアかユートピアかは、外の世界が決めるのではない。
人の心の置き所が決める。
凪であること。
執着せず、動じず、しかし開いていること。
その在り方が、青い鳥の止まり木になる。

Luckとは、掴むものではない。
通過を許されるものだ。
気づけるか、気づけないか。
それだけがすべてであり、そしてそれは、誰にでも開かれている。

今日の対話は、成功でも結論でもない。
ただ縁が起き、場が生まれ、静かに消えていっただけだ。
しかし確かに、そこには青い鳥がいた。
それで、十分なのだ。

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