ほどけてゆく三年――厄年という静かな転回点

厄年という言葉には、どこか不穏な響きがある。
災いに注意せよ、慎め、控えよ――そんな警告のような意味合いで語られることが多い。だが、今この三年間を振り返ってみると、私の中に残っている感覚は、恐れや緊張ではなく、「ほどけた」という実感である。

前厄・本厄・後厄と呼ばれるこの三年は、何か大きな出来事が連続して起きたというよりも、むしろ、これまで無意識に握りしめていたものが、静かに、確実に緩んでいった時間だった。役割への執着、成果への焦り、説明しきれない違和感。そうしたものが、否定されることも、無理に断ち切られることもなく、理解とともに自然にほどけていった。

その過程で、法句経との出会いがあった。「執着」という言葉は、かつては克服すべき弱さのように感じられていたが、読み、考え、日々の生活と照らし合わせる中で、それは敵ではなく、理解されるべき現象なのだと分かってきた。心身を律し、生活のリズムを整えることで、執着は力を失い、その分だけ視界が開けていく。手放したことで、かえって未来への向きが明確になる――そんな逆説を、体感として知った三年でもあった。

還暦を迎えた今、「一巡して還る」という言葉の意味が、身体の感覚として腑に落ちている。元に戻るのではない。外へ外へと向かってきた人生が、内側から静かに編み直され、次の時間に備えて整えられた、その反転点に立っているのだと思う。

今朝も、日課として近くの神社まで歩き、手を合わせた。そこにあったのは願いというより、確認だった。昨日までの縁起への感謝、この瞬間ここに立っていることへの感謝、そして今日という一日が、自分にとっても周りの人にとっても良い日となることへの静かな祈り。授けられてきたものを、今日も実行できることへの喜びを、そっと伝える時間だった。

厄年は、災いの年ではなかった。
それは、人生の絡まりがほどけ、身が軽くなり、次の時間へと自然に歩み出すための、静かな転回点だったのだと思う。

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