今朝も、いつものように朝食を終え、法句経を開き、近くの神社へ足を運んだ。特別な決意があったわけではない。ただ、立ち止まり、今ここにいることを確かめるための小さな往復。そのあと、年賀状を数枚書いた。言葉を選びながら筆を運ぶ時間は、未来へ何かを主張するというより、静かな気配をそっと手渡す行為に近い。
世界に目を向ければ、分断と暴力の知らせが途切れることはない。キーウへの攻撃の報に触れながら、人類は同じことを繰り返しているのだと、あらためて思う。ただ、21世紀の危うさは、欲望を制するための内的なブレーキが、社会の中から失われつつある点にあるのではないか。速さと即効性が正義となり、立ち止まる感受性が削ぎ落とされていく。
そんな思いの中で、ベートーヴェンの第九を聴く。第3楽章のような世界——祈りに近い静けさ——を願いながら、それを現実に引き寄せるためには、第4楽章のエネルギーを引き受けねばならないのだと感じる。
「Nein, nicht diese Töne!」
あの拒否は、間違った音楽ではなく、間違った世界の在り方への拒否なのだろう。
20世紀にジョン・レノンが、USA for Africaが求めたもの。声の違いを残したまま、同じ場所に立とうとした試み。その感覚が霧の中に消えてしまう前に、私たちはもう一度、耳を澄ます必要がある。
今日は妻と溜池山王で昼食をとり、その足でサントリーホールへ向かう。冬の寒さはあるが、天気は良い。生演奏の第九を、同じ空間で、同じ時間として引き受ける。その行為自体が、ささやかでも確かなMOVEMENTなのだと、今は思っている。

