音楽は、不思議な力を持っている。
何かを説明するわけでも、結論を示すわけでもないのに、ふと立ち止まるきっかけを与えてくれる。そして同時に、こちらに何かを「考えなさい」と迫ることもない。ただ、そこに余白を置いていく。
年の終わり、KDFC の New Year Countdown を聴きながら、強くそう感じた。
Orff の O Fortuna が、20世紀の運命のうねりと人間の無力さを突きつけ、続く Barber の Adagio for Strings が、その後に残された沈黙と悲しみを、静かに引き延ばしていく。そこには祝祭の高揚はない。あるのは、息を整えるための時間だ。
音楽は「何を感じるべきか」を決めない。
だからこそ、聴く者は自分自身の記憶や経験を、音の間にそっと置くことができる。戦争を直接知らない世代であっても、20世紀の大戦の重さや、そこから必死に復興してきた人々の気配を、旋律の中に感じ取ってしまう。そして自然と問う。「その先にあった21世紀とは、いったい何だったのか」と。
この問いは、すぐに答えを出すためのものではない。
むしろ、答えを急がないための問いだ。音楽が与える余白とは、考え続けることを許す空間であり、沈黙していてもよいという許可でもある。
だから音楽は、場づくりの重要な要素なのだと思う。
良い場とは、何かを注ぎ込む場所ではなく、人が自分の内側と向き合える余白を持った場所だ。音楽は、その構造を最初から備えている。旋律が流れ、やがて消えていく中で、意味だけが固定されずに残る。
2026年を迎える前に、まだ考えることがある――そう感じられること自体が、すでに豊かな場の中にいる証なのだろう。音楽は、未来への答えを渡さない。ただ、問いを抱えたまま歩き出すための、静かな足場を差し出してくれる。その余白の上に立ちながら、新しい年を迎える。それでいいのだと思う。

