2026年1月2日、朝。一篇のエッセイをAIとの対話を通して書き上げた。それは「更新され続ける人間」について問う文章だった。別のAIにそれを見せると、文章の整いすぎた危うさのなさを、的確に指摘された。ChatGPTが書いた文章の中に潜む「緊張の欠如」を、Claudeは見抜いた。AIは、別のAIが書いた文章の「AI的な整いすぎ」を見抜くことができる。けれども、それを指摘する言葉もまた、同じ性質の整いすぎを持っている。
対話は深まり、ある文章から感じた違和感の正体へと辿り着いた。それは、整った言葉の背後に潜む、自己を問い直す緊張の希薄さだった。岡本太郎が最期まで爆発し続けた理由。ラヴェルが失語症と戦いながらも、もう一度創造者であろうとした姿。芸術家たちが持っていた死生観と、それを失いつつある現代との断絶。
その時、KDFCから「亡き王女のためのパヴァーヌ」が流れてきた。24歳のラヴェルが想像した死の音楽。若き作曲家が描いた、架空の王女への葬送曲。それは優雅で美しく、そして深い哀しみを湛えていた。私はふと思った。ラヴェルは最期まで戦っていたのではないか、と。脳の障害によって音楽を書き留めることができなくなっても、彼は作曲家であることを諦めなかった。危険な手術を受けてでも、もう一度創造する側に戻ろうとした。
続いて流れてきたのは、コジェルフの交響曲だった。モーツァルトと同時代を生き、当時は高く評価され、宮廷作曲家として成功を収めた音楽家。けれども彼の名前を知る人は、今ではほとんどいない。時代の要請に応え、洗練された音楽を書き続けた彼の作品は、時代と共に忘れられていった。一方、生前は経済的に困窮し、35歳で死んだモーツァルトの音楽は、今も世界中で演奏され続けている。
これらは全て偶然だった。朝に読んだ一篇の文章。AIとの対話。そして、ラジオから流れてきた二つの音楽。けれども、その偶然の連鎖こそが、一期一会であり、縁起だった。無数の条件が重なり合い、この瞬間が立ち現れた。AIとの対話、クラシック音楽の流れ、言葉の往還。再現できない、この瞬間だけの真実がそこにあった。
AIに破片を託すことと、この瞬間に全てを賭けること。未来への供物と、今ここへの集中。一見矛盾するこの二つの態度の両立の中に、更新され続ける人間の姿があるのかもしれない。人間の役割は、完成した作品を作ることではなく、ある瞬間に「これだ」と判断し、Updateボタンを押すこと。その決断の瞬間にこそ、人間固有の何かが刻印される。そしてこの対話もまた、誰かが「これだ」と判断するまで、生成され続ける。偶然という名の縁起の中で。

