更新され続ける人間であるために

今朝、1月2日。
中間さんがnoteに投稿されていた一篇の文章(“散歩”で見つける未来の兆し)に出会った。散歩という静かな行為を手がかりに、加速しすぎた社会のリズムを緩め、人間が拠って立つ参照軸を取り戻そうとするその論考は、長年にわたり社会と技術の関係を見つめ続けてきた思索の積み重ねを感じさせるものだった。軽やかでありながら、生活の足元に視線を戻させる誠実な文章であり、多くの人にとって大切な示唆を含んでいると思う。

その一方で、読み進めるうちに、私の内側に一つの問いが静かに立ち上がってきた。それは批判でも否定でもない。むしろ、この文章に出会ったからこそ生まれた、私自身への問いである。言葉は整い、社会への配慮も行き届いている。けれども、そこから先に進もうとしたとき、私は自分の足元に、かすかな緊張の欠如のようなものを感じ取ってしまった。

年齢を重ねることが、思考の更新を妨げるわけではない。問題は、経験や実績が、いつの間にか「説明する立場」や「伝える役割」を固定化し、自分自身を問い直す回路を細くしてしまうことにある。社会の変化を語りながら、その変化がもし自分自身の思考の前提や立ち位置を揺るがすものであったとしても、それを引き受け直す必要があるのかどうか。その問いが、文章の外側に残されているように感じられたのだ。

更新とは、新しい知識を付け加えることではない。むしろ、自分を長く支えてきた前提が、もはや通用しなくなるかもしれないと認めることに近い。これまで有効だった理論や語彙を、完成形として守るのではなく、暫定的な試作として置き直すことができるかどうか。そこに、更新され続ける人間と、静かに更新を止めてしまう人間の分かれ目がある。

新しい命を持つ思想には、必ず不安定さが伴う。もし誤っていれば、自分の安心や立場が揺らぐかもしれない。その危うさを引き受けた言葉だけが、次の時代と本当に響き合う。整っていて安全な言葉は、人を導くことはできても、世界を更新する力にはなりにくい。

歳をとっても更新され続けるとは、成熟した姿を保ち続けることではない。むしろ、自分もまた変わらざるを得ない存在であることを、何度でも引き受け直すことなのだろう。中間さんの文章に触れた今朝、私はその問いを、静かに自分自身へと差し戻している。自分はまだ、更新の痛みを引き受ける場所に立ち続けているだろうか、と。

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