法句経三六一番の句に出会った。「身について慎しむのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い」——身・口・意という三つを丁寧に並べ、最後に「あらゆること」と静かに包括するこの句は、繰り返しのリズムそのものが慎しむという行為に似ている。
「慎しむ」とは抑圧ではない。パーリ語のsaṃvaraは「守護する」という意味を持ち、外から縛るのではなく内側から丁寧に整えることに近い。六十一歳という人生の後半を迎えたとき、この三つのバランスを保つことの難しさと大切さが、理屈ではなく実感として迫ってくる。崩れを知る者だけが、整えることができる。
その朝、日記にはこう書いた。米国がイランを攻撃した。核開発阻止という大義の裏に、石油資源への欲望が透けて見える。グリーンランドへの眼差しも同じ構造だ。時代が帝国主義へと逆戻りしているような感覚。どうしても人類は欲望によってドライブされてしまうのか、と。
この問いは、三六一番の句が指し示すものの、世界規模の写し鏡だった。saṃvaraの欠如した状態——自分の内側を見守ることなく、外へ外へと膨張していく動き。仏教はこれを「貪(とん)」と呼ぶ。そして資本主義という仕組みそのものが、この貪を燃料として組み込んだ制度ではないかという問いが生まれた。欲望を抑制するのではなく、欲望を成長の動力として制度化した仕組み。その結果はWIN&LOSEであり、ゼロサムの世界観です。その根には「自他の分離」があり、仏教はそれを「我執(がしゅう)」と呼ぶ。貪と我執はセットだ。
ここで思い出したのが、シリコンバレーで私を育ててくれたメンターの言葉だった。「国が変わっていくということは、プラクティカルには目の前の人が変わっていくことだよね」。資本主義の最前線を生きながら、その限界を知り尽くしていたからこそ出てきた言葉だと思う。抽象的な世界や国家の話を、一気に足元に引き戻す眼差し。
西洋思想の根底には「個」がある。神と個人の契約、デカルトの我、資本主義の主体としての個人。世界は分離した個の集合であり、だからこそWIN&LOSEが構造化される。一方、日本が育んできた思想の底流には「間(ま)」や「縁(えん)」がある。縁起——すべては関係性の中に生じる——という仏教的見方は、日本の風土と深く溶け合い、自他の境界が截然としていない世界観を育んできた。
ただし、思想の豊かさと現実の行為は必ずしも一致しない。日本もまた帝国主義の加害者になった歴史を持つ。だからこそメンターの言葉が光る。どれほど深い思想も、観念のままでは意味を持たない。
この朝の対話が辿り着いたのは、壮大な答えではなかった。目の前の人。今日の自分の身・口・意。法句経の句も、メンターの言葉も、東洋の縁の思想も、最後は同じ場所に帰ってくる。世界を変える前に、自分の一日を慎しむ。小さく見えて、これが最も根本的な実践かもしれない。
2026年3月1日の朝、法句経との対話から

