胴上げが見せた世界 ——戦争、親鸞、そしてストリートから生まれた希望

仲間がバルセロナへ向かうはずだった。

ドバイ経由の便。しかし機体は引き返してきた。中東の空域が閉じていた。米国とイランの間で、また何かが始まっていた。

ニュースを追いながら、ふと思った。これは「また起きた」ではなく、「まだ続いている」のだと。


20世紀が残したもの、21世紀が取り戻したもの

20世紀の前半は、強国同士が正面からぶつかった時代だった。二度の大戦、数千万の死。

しかしその後、世界はゆっくりと、しかし確かに「一つになろう」という方向へ動き始めた。1991年のドイツ統一は、その象徴だった。冷戦が終わり、「歴史の終わり」という言葉まで生まれた。自由と民主主義が世界を包むのだ、と誰もが信じようとしていた。

それがいつの間にか、崩れていった。

グローバル化は確かに世界全体のパイを大きくした。しかしその恩恵は、あまりにも偏った場所に積み上がった。国と国の間でも、一国の中でも、持つ者と持たざる者の差が、かつてなく「見える」形で広がっていった。SNSが、その格差をリアルタイムで可視化し続けた。

怒りは育った。そして怒りは、「強い国家」「強いリーダー」への渇望に変わった。

今、再び帝国主義と呼ぶしかない動きが世界を覆っている。ウクライナ、中東、グリーンランド。表面の言葉は違えど、その底にあるのは「力を持つ者がルールを書き換える」という古い論理だ。


技術は、どちらの手にも渡る

オッペンハイマーが晩年に抱えた苦しみを、私はこの時代に改めて思う。

彼は「作ることと使うことは別の責任だ」という逃げ場を、自分自身に許さなかった。それが彼を苦しめ続けた。しかし今振り返れば、その誠実さこそが、彼を単なる「核の父」ではなく、人間として記憶させている。

今、同じ問いが、より複雑な形で突きつけられている。

ドローンは国籍のある若者ではなく、コードで動く。判断のスピードが、人間の倫理的な熟慮を追い越し始めている。「誰が引き金を引いたか」が見えなくなるとき、責任はどこへ消えるのか。

技術は中立ではない。技術を握る者の「心」が、その技術の意味を決める。

SNSが憎しみの連鎖を加速することも、胴上げのシーンを一瞬で世界に届けることも、同じ技術の上に乗っている。


失われた30年が、守ったもの

日本の「失われた30年」は、経済指標の上では確かに停滞だった。

しかし別の角度から見ると、バブルの狂乱が過ぎた後、この国はある意味で静かに「勝ち続けること」をやめた。拡張をやめた。征服をやめた。

その30年の中で、何かが守られていたのではないか。

地域のつながり。職人の誇り。自然への敬意。そして「結果よりも、どう生きたか」を問う感覚。

今回のミラノ・コルティナ冬季オリンピックで世界を驚かせた若い日本人選手たちは、その空気の中で育っている。スノーボードで金メダルを取った戸塚優斗は言った。「3大会目でやっと、自分の納得いく滑りができた」と。勝ったという顔ではなく、やっと自分に正直になれたという顔だった。


胴上げが見せた秩序

私がリアルタイムで見られなかった場面がある。

スノーボードの競技が終わった後、参加していた選手たちが国籍を関係なく、勝者を胴上げしたという。

演出ではない。外交でもない。ただ「すごいものを見た」「一緒に戦った」という、純粋な感情だけが人を動かした瞬間。

スノーボードはアメリカのストリートから生まれた文化だ。元々は、国家の代表として戦うものではなかった。板一枚、雪山一つ、あるいはアスファルトの段差一つで始まる、誰も「参加していいか」を決めない世界だった。その民主性が、自然と「相手の技を認める」文化を育てた。

その文化的なDNAが、オリンピックという国家の祭典の中でも生き続けていた。


親鸞が作った「ほっとする場」

ここで、少し遠いところへ連れて行かせてほしい。

親鸞は比叡山で20年修行した。しかし答えが見つからなかった。どれほど修行しても、自分の中の煩悩は消えなかった。その正直な絶望から、浄土真宗は始まっている。

「善人でさえ救われる、まして悪人はなおさら救われる」という逆説は、道徳の話ではない。「完璧でなければ救われない」という権力構造への、根本的な異議申し立てだった。

そして彼は流罪によって越後へ送られ、初めて民と同じ場所に立った。苦しみを上から説くのではなく、同じ場所で共に感じた人間の言葉になった。だからこそ700年後の今も、その言葉は響く。

仏教はインド発祥だ。しかし親鸞はそれを受け取り、日本の民の言葉と生活に降ろし、「救いはすべての人に開かれている」という核心だけを純化した。

スノーボードも同じ構造をしている。アメリカ生まれの文化を受け取り、日本の若い選手たちが何か新しい次元を加えた。それはインキュベートであり、イノベーションだ。


再調整は、上から設計されない

今の世界の指導者たちが力と資源の奪い合いをしている、その同じ時代に、若い世代は全く異なる価値観でつながっている。

政策ではなく、文化が先に動いている。

歴史を見ると、大きな時代の転換点には必ずカウンターカルチャーがあった。しかし今回は、SNSによってその価値観の伝播速度が桁違いだ。胴上げのシーンが瞬時に世界中に広がり、言語を超えて「これだ」と感じる人が共鳴する。

「再調整」は、上から設計されるものではないのかもしれない。あの胴上げのような瞬間の積み重ねが、少しずつ、新しい秩序の輪郭を描いていく。


そして私も、次に

親鸞が流罪という苦しみの中で人々に「ほっとする場」を作ったように。

スノーボーダーたちが極限のプレッシャーの中で「楽しむ」という場を作ったように。

次は私も、そうなれるかもしれない。

その小さな希望が、今朝の発句経を読む声に、静かに混じっている。


2026年3月、東京にて

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