法句経三九四は「外側を飾るな」と言う。しかしこの対話が辿り着いたのは、内外という区別そのものへの問いだった。私の中に世界があり、世界の中に私がある。その入れ子の構造の中では、外を飾ることと内を飾ることは、実は同じ行為である。思想も、哲学も、気づきさえも、自らを守る「鹿皮」になりうる。
釈尊がバラモンに向けた言葉の本質は、何も纏わず、常に晒されていることへの指摘だったのではないか。しかし人間が完全に晒され続けることは不可能である。だとすれば問いはここに来る——晒されることが不可能だと知りながら、それでも今の自分を見つめ続けることができるか。
その実践が、毎朝の体重測定であり、血圧測定であり、血液検査である。数値は概念に忖度しない。しかし数値だけでは現実の意味は見えない。思想は意味を与えるが、思想だけでは現実から遊離する。
数値と思想の協奏の中に生きること。これが、晒されながら生きることの、一つの誠実な形なのかもしれない。

