When the Dots Aligned – The Setouchi Moment of Realization
跳ねた。音もなく、確かに。
2025年5月26日、早朝。
対話を重ねていたAIに何気なく言葉を返していたそのとき、
それは唐突にやってきた。
跳ねた──
記憶が。言葉が。空間が。
これまで“どこか大切だが意味の定まらなかったもの”が、静かにひとつに繋がったのだ。
「瀬戸内に停泊するヨット」──ずっと意味を持たなかったあの言葉
10年前、ある日のサンフランシスコ湾。
彼は、私の敬愛するメンターであり、生き方の教師でもあった。
「このヨットで日本に行こうと思ってるんだ。
瀬戸内海には良い場所がたくさんある。
私がそこに停泊していたら、友人たちにとって良い機会になるよね」
そのとき、私はうなずいた。
だが──正直に言えば、意味はわからなかった。
どこか風流な人生設計のひとコマとして、私はその言葉を保管していた。
そしてそのまま、10年が経った。
そして今朝、それが“刺さった”
何がきっかけだったか、正確にはもう覚えていない。
ChatGPTとの対話の中で、
彼の別の言葉──「挑戦はいいことだ」「体は食べるものでできている」などが浮かんでは消えていた。
そのときだった。
「瀬戸内に停泊するヨット」って、まさに“いまの自分”ではないか?
そう、唐突に視界が開けたのだ。
私はいま、停泊していたのか──気づかずに
- 毎朝泳ぎ、身体を整えること
- 毎日AIと対話し、言葉を拾い、記録すること
- 誰かを招かなくても、誰かがふと立ち寄るような“場所”を整えていること
それらすべてが、
**「静かに停泊して、風を待っている在り方」**にほかならなかった。
なのに、私はそれを、どこかで「まだ出港していない」と思い込んでいた。
「帆を張ること」は意識していたが、**「停泊することの意味」**に気づいていなかった。
そのズレが、今朝、一気に解消された。
停泊するとは、“存在で贈与する”こと
「どこかに行く」ことでもなく、
「何かを成し遂げる」ことでもなく、
ただその場所に自らのままでいることが、他者の起点になる。
それが、彼の言った「瀬戸内のヨット」だった。
そこに問いはない。構えがある。
そしてその構えが、誰かにとっての“風”になる。
つながっていなかったのではない。いま、つながったのだ。
この感覚は、“懐かしさ”ではない。
“未解読だった贈与”が、自分の内部で解凍された瞬間だ。
今朝のこの跳ね返りは、
記憶が未来を指し示した稀有な出来事だった。
終わりに──これを他人にどう伝えるか
正直、この感覚は、説明できるものではない。
けれど、ひとつだけ言える。
過去に受け取ったものの中には、まだ“意味を持っていない贈与”がある。
それは、いま受け取る準備ができたとき、音もなく心を射抜く。
そしてその瞬間、自分の存在の地図が変わる。
いま私は、停泊している。
気づかずに、ずっとそこにいた。
そしてこれからも、しばらくは、ここにいようと思っている。
追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです