ジムでのトレーニングから戻り、私は一つの感覚の輪郭を確かめていた。
それは、「鍛える」という言葉の奥にひっそりと潜む、“構えの気配”だ。
今日もいつものように、クロールで1000mを泳いだ。
この距離は、私にとって単なる運動ではない。
0〜150mは、身体と静かに握手するような時間。
150〜300mでは、筋肉がようやく目を覚まし、水と自分の動きが重なってくる。
だが、そこからが本番だ。
300〜800mは、やめたくなる──毎日、必ずその誘惑がやってくる。
しかし、そこを越えた800m以降、私はいつも“ゾーン”に入る。
呼吸、意志、フォーム、それらが同じ線の上に並び出す。
もはや泳いでいるという感覚すら消え、私は「泳いでいる自分」にも触れなくなる。
その“構え”が今日、ジムのマシントレーニングにも表れた。
チェストプレス。
重さを押し出すその瞬間に、呼吸が合っていると、私は自分でも驚くほど粘れる。
押すときに息を吐き、戻すときに吸う──ただそれだけのことが、「続けられる自分」をつくるのだ。
逆に、吸いながら押してしまうと、あっけなく崩れる。
フォームでも筋力でもない、呼吸の方向性が“根性”の存否を決めているのだと実感した。
同様に、ラットプルダウンでは、重さを追いすぎると呼吸が止まり、身体が勢いに流されてしまう。
私が扱うべきは「重量」ではなく、「呼吸が通る範囲の重み」なのだと、今日はっきり気づいた。
音楽もまた、今日の気づきを支えてくれていた。
KKSFのプレイリスト──あの頃、サンフランシスコへの便で聴いていた空気の名残り。
それをジムで流すと、不思議と集中力が保たれる。
新鮮さではなく、“いつものリズム”こそが構えの再現装置になる。
同じ曲順で流すプレイリストが、トレーニングメニューと連動して身体のリズムを再起動してくれる。
水、呼吸、音。
それらが今日、私の中で一つのリズムを奏でていた。
それは構えが立ち上がる瞬間──
鍛えるのではなく、“通す”という静かな決意。
それを私は、今日も確認できた。