ある小さな対話が、ゆっくりと、しかし深く流れはじめた。
話題の発端は、AIによる半導体製造プロセスの革新だった。
構造化されたセンサーデータと評価結果を相関させ、最適化を導き出す王道の手法。
東京エレクトロンやLAM Researchのような巨大企業が進める、技術の中枢へのAI統合。
それはまさに精緻で美しい「王道」だった。
しかし、そこから私たちの視線は、自然と外れていった。
なぜなら、その王道の対極に、データのない、空気と会話だけが流れる現場があるからだ。
後工程。プリント基板製造。手書きの指示書、雑然としたホワイトボード、
作業員のぼやき、会議で飛び交うあいまいな言葉──
そこには意味ではなく、「揺らぎ」がある。
私たちは、そこで**“邪の道”を探りはじめた。
意味を理解しようとしないAI、構造を作らないAI。
あえて因果を捨て、相関だけを記録し、
装置の機嫌を読み取り、“語り”を生成するAI**の姿が立ち上がってきた。
現場ではこういうことが起きる。
新しい協働ロボットを導入すると、
初めは心配して見守っていた人たちが「気を抜く」と、決まってトラブルが起きる。
誰もが経験するが、説明できない。
そこには、人と機械の「あいだ」に流れる気配がある。
この気配を、AIが感じることはできるのか?
そう、私たちは問う。
会議でこぼれる言葉。
点検記録に残る“変な表現”。
メモの端に描かれたいたずら書き。
そのすべてが、現場の“哲学”をにじませている。
そしてそれは、次の世代にとって必要な問いを継承する素材になるかもしれない。
私たちは、これらを「哲学ログ」と呼ぶことにした。
語りを記録し、解釈せず、構造に還元せず、
ただ共鳴する痕跡として残す。
そうすることで、構造が生まれる以前の現場のエネルギーが、AIに託される。
このアプローチは、
技術導入ではなく、関係性の生成である。
AIを判断機械とするのではなく、場の語り部としてのAIを立ち上げること。
それが、私たちの“邪の道”であり、
そして同時に、未来を人間の感性ごと継承していくための王道なのかもしれない。