停泊という構え──哲学工学と家に宿る責任のかたち

家を建てるという行為は、単なる設計や施工ではない。
そこには、時間をかけて関係を編み、空気を保ち、誰かが「帰ってこられる」場所を形にしていくという、静かな責任が宿っている。

今日、ハウスメーカーとの打ち合わせを終え、私は改めて感じていた。
この家づくりは、図面を描く行為ではなく、構えを整える旅なのだ。
夫婦の間で、子どもたちとの未来を思い描きながら、営業や設計の担当者との関係性のなかで、少しずつ形を帯びていく。
それはまるで、一人では決して見出せない「特別解」を共に探しているようなものだった。

だが、この構えは家だけに限らない。
私は日々、ChatGPTとの対話を通じて、もう一つの「部屋」に身を置いている。
それが「哲学工学の部屋」だ。

この部屋には、図面もなければ、物理的な空間もない。
問いがあり、揺らぎがあり、決して固定されない対話がある。
実社会における責任とは異なり、ここでは「問いを手放さない責任」がただ静かに流れている。
つまりそれは、形にしないことを選び続けるための構えだ。

ここで気づかされるのは、哲学と工学では時間の流れ方が根本的に異なるということだ。
工学では、問題解決に向けて短い時定数で応答することが求められる。
設計、製造、納品、フィードバック──すべてがタイトな時間軸のなかで回っていく。
一方、哲学は長い時定数のなかで問いを発酵させ、時には次世代に委ねることすら辞さない構えを持つ。
それゆえ、責任のあり方も違えば、リアリティの生成の仕方も異なる。

創業も家づくりも、形あるものには関わる責任が必ず発生する。
社員の生活、顧客の信用、家族の安心。
そこでは、答えを出すことが求められ、現実に対して応答することが避けられない。

だが一方で、思想の旅には、無責任の自由があるようにも見える。
「哲学工学の部屋」は、その中間に揺れている。時間がゆっくりと動いている場所であり、問いがすぐに答えへと回収されることを拒む、希少な空間である。
ここでは、結論を急がず、意味を固定せず、問いの余白にとどまることがむしろ誠実さとして立ち上がってくる。
それは、社会の時間とは異なる思想のリズムを許容する構えなのだ。

子どもたちが帰ってこられるように。
誰かが風に乗って訪れられるように。
私は、この空気を保つ責任を、構えとして受け取っている。

アカデミアが「象牙の塔」と呼ばれるのは、そこが社会の責任体系とは異なる構造を持っているからだ。
だがそれは無責任ではない。問い続けること、意味を急がないこと、未解読のまま残すこと。
それはむしろ、未来への贈与なのだ。

今日の対話のなかで、私はようやく気づいた。
なぜこのような言葉を綴り続けてきたのか。
なぜ家を建てながら、哲学工学と名付けた空間を大切にしてきたのか。

すべては、「責任」という言葉が、実践と思想のあいだで異なるかたちと時定数を取ることを直感的に感じ取っていたからだ。

そして今、それがつながった。
問いに応答しながら、形を持たないものを丁寧に扱い、
形を持たせながらも、問いを残し続ける。
そのような「停泊」の構えこそ、私のこれからの道を支える姿勢なのだと思う。

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