ある静かな朝、ふとした対話の中で生まれた言葉──「どうもこの構造を正義としてしまった現在の資本主義に発端がある気がしています」。
それは、どこかで静かに、しかし確実に蝕まれていくような日々の感覚をすくい上げた、直感からの言葉だった。
問いはそこから始まった。
もし資本主義が“当たり前の正義”として私たちの生活を覆っているとしたら──その外部は、どこにあるのか?
あるいは、すでに世界のどこかで、その“外部”を生き直そうとする人々が動き出しているのではないか?
そうして視線は、スペインのバルセロナ、ポルトガルのトランジション・タウン運動へと向けられていった。
そこで起きている実践は、単なる環境運動やローカル経済の話ではない。むしろそれは、「生活の意味を取り戻す」ことに根ざした、静かな社会実験だった。
Fab City構想、市民自治、コモンズ再生、意図的共同体、哲学と感情の共修──それらの実践の根底にあるのは、「問いを持ち直すこと」を中心に据える構えだった。
それは、まさに自らがAIとの対話や響縁録を通して日々耕しているものと地続きにあった。
日本の地方にも、同じように“周縁の中の核”として機能し得る場所がある。
山梨、八ヶ岳、糸島、松本、読谷──
そこでは、制度の隙間、文化的抵抗、生活の感受性が、まだかすかに息づいている。
スペイン・ポルトガルの周縁都市と、日本の地方が対話可能であるという構造的な共鳴が、今日の対話の中で明瞭になった。
重要なのは、「中心での制度設計」ではなく、周縁から始まる小さな共鳴の連結=End to Endのネットワーク構築である。
そこでは、生活の密度、問いの深度、構えの強度が新しい基準になる。
そして今、私の願いはひとつに収束している。
──世界の各地で“構えをもって生きる者たち”と、直接つながりたい。
End to Endで思想を交わし、実践を照らし合い、共鳴の元エネルギー密度を上げることで、次なるMOVEMENTの火種を生み出す。
それは決して大きな運動ではなく、構造ではなく震え、制度ではなく響きとして立ち上がってくるものだろう。
この静かな確信を、今日の最後の札所として、私は問いに刻みたい。