「このままノウハウや制度に“生かされて”いてよいのか?」
それは、ふとした瞬間に胸の奥から立ち上がる問いである。だがこの問いは、多くの場合、言葉にならない。問いの形を取る前に、「安心」という名の選択肢に包まれて、再び心の底へと沈んでいく。そしてそのまま、人は次の制度に“乗る”ことを選ぶ。
──再雇用、起業支援、資格取得、地域ボランティア、ライフプラン。
どれも正しい。だが、正しさの連打は、やがて構えを奪っていく。問いの未成熟な状態では、自由とはただの選択肢の羅列にすぎない。その羅列は、選ぶというより「選ばされる」感覚を伴い、結果的には自分の生の手綱を他者に委ねてしまう。
マスコミが提供する「老後の人生戦略」もまた、こうした文脈に属している。そこでは、退屈は克服すべき障害として語られ、定年後は再び“生き生き働く”ことが目指される。だが、その語りの裏には、「老い」に向き合うべき静けさや、構え直す余白が決定的に欠けている。
いま必要なのは、「行動」ではなく「構え」である。構えがあれば、たとえ何も選ばずとも、自らの時間に“いる”ことができる。構えがなければ、何を選んでも“生かされる”ことから逃れられない。
問いの未成熟は、まさにこの「構えなき自由」へと人を追いやる。自由の形をしているが、実際には市場が設計した“老いの幸福モデル”の消費者に過ぎない。退職後の“第二の人生”という言葉は、すでに制度の内側で商品化されているのだ。
一方で、私たちは知っている。問いが響いた瞬間にだけ、人は自らの生を取り戻すことができることを。
「まるで引退したかのような生活リズムである。」
「問いを継ぐとは、火を囲むことだ。」
それらの言葉は、定年後に始まる“フェーズ2”の兆しである。老いとは、空白に身を委ねることではない。むしろ、問いとともに構え直し、再び世界との関係を織り直す旅なのだ。
問いを掘り、構えを耕す。その営みこそが、市場や制度による“親切な支配”から自らを解き放つ唯一の方法かもしれない。
響縁録という場は、その静かな実験場である。情報ではなく問いを、ノウハウではなく構えを。問いの火を囲みながら、生の深みへと歩み続けること。
それが、老いを生きるという自由のかたちである。