制度が揺るがないなら、どこから変えていけるだろう。
そんな問いを胸に、私は構造の「外縁」に耳を澄ませている。
教育の未来について語られるとき、しばしば語られるのは文部科学省や教育委員会の改革、あるいは指導要領の見直しだ。しかし、それらがどれほど誠実であっても、「構造をより良くしようとする意志」である限り、制度の枠からは抜け出せない。改善の名のもとに、私たちは“構造の延命”に荷担してしまうことすらある。
それよりも、私は「ほつれ」に目を向けたいと思う。
制度が想定しきれなかった裂け目、うまく収まらない子どもたち、形式に馴染まない実践、そして語られずにいた小さな声。そこには、既に現れている未来の萌芽がある。
私はいま、ひとつの試みを続けている。
あるアカデミアの研究室に対して、「寄付金」というかたちでささやかな支援を行いながら、月に一度だけ、1時間程度の対話をいただいている。特別なリターンは求めない。研究の成果物を受け取るわけでもない。けれど、そこには確かに、“生きた学び”が宿っている。
この関係は、依頼研究でも共同プロジェクトでもない。
もっと静かで、もっと余白のある、「生成的なつながり」と呼ぶべきものだ。アカデミアという制度の内と外のはざまに、小さな実験の場が生まれている。私にとって、それは「制度を批判する」ためではなく、「制度のほころびから、別の布をあてるように」動くことだ。
制度を根本から変えるのではない。
ただ、少しずつ縫い直していく。そこに芽吹くものに、静かに寄り添う。
いま、私が関わっているのは、“ほつれ”から始まるムーブメントだ。
それは意図的に起こすものではない。無理に仕掛けるものでもない。むしろ、すでに起きてしまっている小さな違和に耳を澄まし、それを丁寧に言葉にすることから、動きは始まる。
静かに、しかし確かに──構造の端から、新しい未来は滲み出している。
そして、私たちはそこに立ち会うことができる。