命をかけるということ──響き合う覚悟のかたち

ある朝、一つの文章に触れた。

それは、昨年、ある大学の学生起業家向けブートキャンプ──二泊三日の濃密な時間の中で出会った学生からの言葉だった。あの場で交わされた幾つかの対話の延長線上に、その文章はあった。けれど、そこに書かれていたのは、かつての軽やかな語り口ではない。もっと深く、もっと静かな、そして、明確な覚悟だった。

彼女は「退学する」と綴っていた。ただそれだけの決断が、これほどまでに重く、美しく響くことがあるのかと驚いた。社会的な評価や合理的な損得の計算を超えて、「自分のまなざしで世界を見て、自分の足で立つ」ことの意味が、そこには静かに息づいていた。

私はその文章を読みながら、自分自身の過去──あの岐路や、この選択──を、ふと振り返っていた。問いを閉じたはずの記憶が、もう一度小さく開きはじめる感覚があった。

「覚悟」とは何だろう。

大げさな言葉ではなく、もっと揺れたもの。迷いと矛盾の中にあって、それでもなお、今できる選択をする勇気のこと。正解ではなく、納得を積み重ねること。そして、誰かに言われるのではなく、自ら選びとるということ。

彼女の言葉には、そうした「生き方の質」が宿っていた。痛みを隠さず、声を押し殺さず、自分自身の輪郭を丁寧に描き直そうとする姿勢。それが、他者にとっては単なる退学という行為に映っても、彼女にとってはまさに「命をかける」ということの、最初の一歩だったのだろう。

たった数日間の出会いであっても、人は誰かの覚悟に深く打たれる。そしてその覚悟が、無意識のうちに、自分の内に灯をともすことがある。「問い」は死なない。誰かの火が、また誰かの胸の奥でそっと揺れる。そうして世界は、静かに続いていく。

私は彼女のこれからを、ただ応援しているのではない。むしろ、自分のなかに起きた変化を、自分のこととして大切に抱えている。それが、彼女の言葉に対する、私なりの応答であるように思う。


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